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台湾 台南市 六重溪 シラヤ族の公廨(コンカイ)

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六重溪。バス停付近三差路。台南市白河区。
20171010日(火)。
後壁駅から725分発の新営客運のバスに乗り、白河を経由して、六重渓へ85分頃に着いた。
目的は六重溪平埔文化園区にあるシラヤ族の公廨(コンカイ)である。
詳しい日本語ガイドはほとんどない。
 
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六重溪。バス停付近三差路。看板。
看板には、左方向に「平埔文化区・公廨」「千霞園・六重渓温泉」と書いてあるので、左の道を歩いた。
 
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六重溪平埔文化園区。入口。
10分ほど歩くと、道路左側に文化園区が見えてきた。
 
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シラヤ族の公廨(コンカイ)。六重溪平埔文化園区。
二つの建物と広場がある。
 
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シラヤ族の公廨(コンカイ)。
公廨(コンカイ)は元々は平埔族原住民の男性の住居あるいは集会所を指す。祖靈信仰として、内部に壷を祀る風習があり、国分直一の著作「壷を祀る村」(昭和19年)では、シラヤ族の村で、祖神阿立祖(アリズ)の神体であるという壺が祭壇に祀られていたことが記されている。
 
昭和38年に国分はシラヤ地方を再訪し、知母義より東方山麓の左鎮郷で阿立祖信仰の遺風に出会う。双角木柱の神座にはキョンやイノシシの頭骨が掲げられていた。壺を祀る形式は簡略化されたものと理解された。 
さらに古式があり、「安平県雑記」には、太い竹の上に、人を殺して馘首して皮肉を去った頭骨を掲げていたが、清朝が禁止したので獣骨に変わったと記されている
 
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。主に台南に住み、高雄、屏東にも居住している。八田與一で知られる烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区になっている。
 
近年の平埔族の文化探索ブームに合わせ、台南市政府は平埔文化の特色を守るために「六重渓平埔文化園区」を成立させて役所を再建し、伝統的竹家屋を建設し、平埔族の食器等文物を収蔵した。六重渓河谷地帯には11 個の部落が集まり、その内三重落、六重渓、十牌、頂埔、崁下、檳榔等の6つの部落は平埔族の末裔とされている。
 
漢民族が台湾へやってくる前、嘉南平野に点在した平埔族の集落の数々は、ホアニヤ族やシラヤ族と言われる人々で、狩猟や簡単な農耕、漁業を糧として暮らしていた。長らく天災と山地に住む原住民たちが彼らにとっての二大脅威で、自衛のため、一定の場所で生活することはせず、集落の規模も大きくはなかった。
 
漢民族が台湾へやってきたことで、彼らは本格的な農耕技術を知ることになり、平野には灌漑用水のため池が設けられ、稲作が始まった。漢民族は技術や資本において優勢になり、「割地換水」と呼ばれる体制を取るようになった。漢民族がため池を設け、平埔族が土地を分割する代わりに用水を得るという仕組みで、長い年月を経て、漢民族が大量移民するようになると、平埔族は次第に同化されていった。
 
六重渓にはコミュニティ博物館があるらしいが、良く分からなかった。
 
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シラヤ族の公廨(コンカイ)。
竹柱造で、萱葺きで覆われている。内部には、向柱と向神座がある。
 奥には壺が 5 個置かれ、上に書かれた「太祖五姉妹」の文字に、六重渓部落の信仰の特色が表れている。
 
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公廨(コンカイ)。壺。
 
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六重溪平埔歌。
 
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1997
1012日の集合写真。20091216日付けの公廨再建沿革。
 
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公廨(コンカイ)。
横の小さい棟には、「清水老君」と記されている。
 
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公廨から眺める六重溪周辺の丘陵。
 
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六重溪平埔夜祭。案内幕。民国
103年(2014年)107日午後2時開催。
毎年農暦(旧暦)915日に祭典が行われる。神に豚を捧げる儀式が中心である。
 
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六重溪平埔夜祭。案内幕。伝統的な歌舞。
 
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六重溪平埔夜祭。案内幕。
 
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六重溪周辺案内図。広場前の案内板。                  (拡大可)
六重渓は白河区南側にある主要な河川で、大棟山および枕頭山の間に源を発している。この川は山沿いにくねくねと曲がりながら流れており、神秘的な風景となっている。河の一つの曲がりを「重渓」とよび、東山郷や白河區からこの集落まで渓流が6回曲がりくねることから六重渓と名付けられた。
 
六重渓は六重渓沿いにあるいくつかの集落全体の総称で、河畔付近の最大集落が「六重渓集落」であることから付けられた。六重渓は戦後「六渓里」に改められ、台南県白河區に属している。現在百戸あまりの平埔族の末裔が住んでいる。
  
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六重溪の歴史。
ここは元々は平埔族のホアニヤ族の多囉国社の狩り場で、清国乾隆中葉まで、ここの人々は「ダイボアン族」の「大武龍社」(現在の玉井郷、楠西郷)に属していた。後に彼らが北方の六重渓河畔に移住させられ、集落を再建し、「大武龍派社」を建てた。
漢民族の開墾が内山方向に進められ、六重渓までおよび、さらに日本統治時代に「タパニー事件」が起こると、多くの平埔族は再び六重渓に遷居した。これにより、ここは平埔族と漢民族が雑居する土地となった。中でも平埔族は主に三重渓集落以東の六重渓の河谷に分布していた。
 
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信仰と祭祀。
公廨の向柱には豚の頭骨が架けられる。と向神座がある。
壺の水は毎月1日と15日に替えられる。
 
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夜祭と石牌仔古井。
 
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広場北高台から。
 
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広場北の建物。
石牌仔古井の方向へ行こうとしたら、犬に吠えられたので諦めた。
 
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公廨裏のトイレから
2棟の屋根を眺める。
 
実物の公廨を見られたことに満足して、六重溪のバス停へ引き返した。
 
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六重溪のバス停から東へ歩くと、川があり橋の途中まで歩いた。
 
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六重渓
から白河へ向かうバスに乗車。
六重渓のバス停に着いて、時刻表を見ると、檳榔始発で六重渓を95分に出て白河に925分に着くバスがあることが分かった。
時間に余裕があったので、橋に行ったり、バス停前の売店で飲み物を買ったりして時間を過ごした。
 
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ス内の時刻表。
バスはハイエース並みのミニバスである。
白河のバスターミナルに着くと、20分ほどで関子嶺温泉行きのバスに乗車できた。

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