2017年10月11日(水)。
本館前広場には、近藤兵太郎監督と蘇正生の銅像、「天下の嘉農の碑」がある。左奥は体育館。右奥は学生会館。
校史室がどこにあるか知らなかったが、12時50分頃、大学本館へ昇った。入口ホール左右には多くの展示があり、KANO関連の史料がないかと捜したがなかった。
この校章は第二校徽で、第一校徽は別にあるが、よく使われるのはこちらである。
「太陽の光芒」は旭日が東から昇るようす。「山脈」の代表は玉山(新高山)である。婉延と河が流れるのは、玉山山脈から発した蘭溪、濁水溪、曽文溪及び八掌溪などの溪流をさす。「緑色草原」は嘉南平原を表す。「古鐘」は嘉義大学の教育原理を象徴する。枠にある黄色い5弁の「花」は阿勃勒(ナンバンサイカチ)を図案化したもの。
モットーは、「誠樸」誠敬待人,崇尚樸実作風。「力行」努力実践,体現知行合一。「創新」創意革新,追求卓越境界。「服務」熱心公益,増進社会福祉。
歩き方によれば、校史室の見学には事前に予約が必要で、料金150元と書いてある。ホール左側の廊下へ向かうと、校史室があったが、閉まっていた。
そこへ、偶然女性職員が通りかかり、話しかけてきたので、校史室を見学したいような素振りをすると、ここで待って下さい、と立ち去り、数分後に男性職員を連れて現れた。男性職員は校史室の見学担当で、どうぞお入り下さいと、以後1時間ほど学内を案内してくれた。
対価を受け取る雰囲気はなかったので、感謝の言葉だけで別れたが、申し訳ない。
正面にKANO関連の展示がある。
2014年2月14日から5月18日まで開催された。台湾の野球(棒球)精神を主題とした展示会。
「民族の自信はこの一投にあり」。
呉昌征(1916年~1987年)。漢人で、当時の名は呉波(ごは)。嘉農野球部に憧れ、近藤監督に懇願して練習の手伝いをしている。後に入部して投手・外野手となり、甲子園大会にも出場した。卒業後は日本でプロ野球選手となり、1937年に東京巨人軍に入団し俊足・強肩の外野手として活躍。「人間機関車」と呼ばれた。1942年・1943年には2年連続首位打者を獲得する。
1943年、日本に帰化し、石井昌征(まさゆき)に改名。登録名は呉昌征とした。
1944年阪神軍に移籍、戦後は野手だけでなく投手としても活躍し、1946年にはノーヒットノーランも達成した。1950年からパリーグの毎日オリオンズに移籍。1957年に現役引退した。1995年に野球殿堂入り。
右下の写真は船内で準優勝旗を持つ嘉農野球部員たち。
満塁で拓弘山(真山卯一)が安打を放ち、上松耕一(陳耕元)、呉明捷、東和一(藍徳和)がホームインした場面。
幣原喜重郎の兄で、当時台北帝国大学総長であった幣原坦と思われる。
羅保農(1908年~1982年)。レフト・1番。アミ族で、本名はポロ。陸上部のマラソン選手だったが、足の速さを見込まれて野球部に抜擢された。選球眼に優れ、打率.530という強打者であり、甲子園準々決勝(対札幌商)では嘉農出場史上唯一となるホームランを打った(台湾代表チームとしても最後のホームランとなる)。また、俊足を活かして盗塁も数多く成功させる。呉明捷の卒業後は投手となり、川原とバッテリーを組んで1933年の甲子園大会にも出場した。卒業後は故郷の台東で農業試験場に勤務し、台湾東部での野球の普及活動にも尽力した。
1933年に早稲田大学に進学、早大では一塁手に転向して打者として活躍、1936年には東京六大学野球での当時の通算ホームラン数のタイ記録となる7本を記録、同年秋のシーズンでは打率0.333で首位打者を獲得している。1938年に早大を卒業した後はプロ野球には進まず、台湾籍のまま東京の台湾拓殖に入社して社会人野球選手となった。1945年に終戦によって台湾拓殖が整理されると同時に野球選手を引退、それ以降も台湾には戻らず、日本で職に就いて暮した。戦後、日本国籍を失った後は日本国籍を再取得することなく、亡くなるまで中華民国の国籍のままだった。