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台湾 嘉義 嘉義農林学校の後身・国立嘉義大学 天下の嘉農の碑 

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国立嘉義大学。学生食堂。嘉義市。
20171011日(水)。
嘉義市東郊の富安宮見学を終え、次ぎは嘉義市西郊の国立嘉義大学蘭潭校舎の見学である。
国立嘉義大学の主要な前身は嘉義農林学校である。
 
日本統治下の嘉義農林学校(嘉農)の弱小野球部が甲子園に出場して準優勝した史実を映画化した2014年の台湾映画「KANO1931海の向こうの甲子園~」は第9回大阪アジアン映画祭観客賞など数々の映画賞を受賞し、日本でも2015年に公開され話題となった。
 
嘉義大学蘭潭校舎へのバス便は嘉義駅から嘉義県公車の市区1系統があり、毎日11便運行されている。嘉義駅1100分頃のバスに乗り、キャンバス正門のさらに奥にある終点に1130分前に着いた。1530分のバスで帰るまで、「KANO」関連の場所を見学した。
バス停近くには学生会館・食堂があり、1階はコンビニだが、23階は「美食広場」という学生食堂になっている。
昼食で満員になる前だったので、食事をすることにした。
 
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国立嘉義大学。学生食堂。自助餐。セルフで単品を選ぶ。
 
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国立嘉義大学。学生食堂。自助餐。おかず1皿とご飯で
90元。
 
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国立嘉義大学。学生食堂。
2階と3階。
 
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国立嘉義大学。学生食堂。周囲の壁側には鶏肉飯・スイーツなどの専門店や喫茶店が並んでいる。
 
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国立嘉義大学。学生会館・食堂の正面側。食堂は裏口側にある。「天下の嘉農の碑」の場所を学生に尋ねて教えてもらった。
 
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国立嘉義大学。「天下の嘉農の碑」。
 
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「天下の嘉農の碑」横にある石碑。
「天下嘉農 嘉農栄耀」と題され、嘉義農林学校野球部の活躍が刻まれている。
野球部は近藤兵太郎監督のもと台湾人・原住民・日本人の民族融合が最大の特色であった。
1931年夏の「第9回全島中等学校野球大会」で濁水渓以南の学校で始めて優勝し、甲子園出場権を得た。甲子園大会で準優勝(亜軍)を果たし、「天下の嘉農」の美称の栄誉を受けた。
嘉農創立90年を慶祝し、校友総会が「天下嘉農」の球盃を寄贈した、と記されている。
 
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「天下の嘉農の碑」。石碑。
嘉義大学学長の文章、嘉義大学校友総会栄誉理事長寄贈。2009117日の日付がある。
 
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体育館。
2017年名古屋の中京大学と国立嘉義大学の硬式野球部同士の国際親善試合の案内幕。
201681日から83日にも、中京大学と国立嘉義大学の親善試合が行われている。
1931年の決勝戦で戦った中京商業学校の後身の大学部門が中京大学である。
 
「天下の嘉農の碑」の南側に体育館がある。中に入ると、バスケットなどの練習が行われていた。
ホールに多くのトロフィーが飾られていたが、最近のものばかりだった。
 
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国立嘉義大学の校章。
阿里山の日の出をモチーフとしたエンブレム。優れたデザインが印象的だった。
 
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「天下の嘉農の碑」を南側から見る。正面に校史室(文書館)のある大学本館が見えている。
 
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近藤兵太郎監督と蘇正生の銅像。大学本館前の広場。
 
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近藤兵太郎監督と蘇正生の銅像。「天下の嘉農の碑」のボールに向けてバットを構えている。
 
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近藤兵太郎監督と蘇正生の銅像。後ろは学生会館。
 
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近藤兵太郎監督と蘇正生の銅像。説明文。
201412月に完成。卒業生により寄贈された。
 
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近藤兵太郎監督の説明文。
熱血教頭・近藤兵太郎(18881966)。
松山市生まれ。1918年松山商業学校を初の全国出場へと導いたのち、1929年台湾へ赴き会計士となった。1929年嘉農野球部の監督に招聘された。近藤は日本人のみを贔屓することなく、「蛮人(原住民)は足が速い,漢人は打撃が強い,日本人は守備に長けている」といって、バランスの良いチームを作り上げていった。
1931年それまで台湾代表を独占していた台北一中,台北商業など日本人ばかりで形成された台北勢を破り,甲子園初出場で準優勝した後も嘉農で野球指導を続け、甲子園には1936年まで春1回、夏4回出場した。
 
戦後、故郷の愛媛県松山市へ引き揚げた後も新田高等学校や愛媛大学で野球部監督を務めた。
 
イメージ 17蘇正生の説明文。
永遠のセンター・蘇正生(19122008)。
台南市東山区に生まれる。本島人。テニス部員だったが、野球部の流れ弾をラケットで打ち返したことから、近藤に乞われて野球部へ転部する。
1931 年の甲子園大会ではセンター・2番。当時世界最大と言われた甲子園球場で、札幌商業の錠者博美投手の速球をバットを折って打ち返し、打球を最も遠い外野レフトスタンドのフェンスを直撃した初のアジア人選手となった。
卒業後は横浜専門学校(現・神奈川大学)、嘉義実業団野球部で活躍。その後もコーチや審判を務めて台湾の野球発展に貢献し、「台湾野球界の国宝」ともよばれた。部員の中では最も長命で、映画で描かれたエピソードは脚本執筆時に存命だった蘇からの聞き取りによるものも多い。
 
このあと、校史室のある大学本館へ向かった。

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