2017年10月11日(水)。
本日は富安宮と嘉義大学を見学した。日本人警官・森川清治郎を義愛公として祀る富安宮は、嘉義市の東にある。嘉義駅から朴子へ行き、バスを乗り継いで副瀬で下車する。
前日までに、バス時刻表を調べていたので、楽に行けるだろうと思った。しかし、早朝、嘉義駅前で嘉義県公車の朴子行きに乗り、朴子で下車したが、ネットで見たバスターミナルではなく、単なるバス停だった。近くの商店のおばさんに尋ねたところ、近くの公園にいた60歳ぐらいの男性を紹介された。富安宮へ行きたいというと、男性はバイクの後席に乗れという。5分余り走った末、ネットで見覚えのある朴子バスターミナルへ着いた。
迷える日本人旅行客を親切に案内してくれた台湾人に感謝したい。嘉義客運と嘉義県公車は別会社なので朴子バス停は数㎞離れていたのだ。
港墘厝行きのバスが副瀬を経由する。
嘉義線は便数が多い。副瀬線は7便である。
8時15分にここに着いたので、8時40分発の港墘厝行きのバスまで余裕があった。大通りには屋台が数軒あった。
港墘厝線の時刻表。終点の港墘厝から同じバスが折り返して、朴子へ帰る。
本数が少ないので、9時12分発のバスで帰ることを目標にした。
日本人の警察官森川清治郎(1861年~1902年)は、義愛公の名で知られ、土地神として崇められている。
2016年の訪台時に「地球の歩き方」や片倉佳史「台湾に生きている日本」で知った。
1861年、現在の神奈川県横浜市の農家の息子として生まれた(山梨出身という説もある)。1892年兜木ちよと結婚、翌年真一出生、当時横浜監獄の看守に任じていた。日清戦争後の1897年、台湾が日本の統治下になったのをきっかけに36歳で単身渡台、同年5月巡査を拝命、各地を転任後、台南県下の大坵田西堡副庄(現嘉義県東石郷副瀬村)の派出所勤務となった。
教育面では、廟の中に寺子屋を開いて、自費で教師を雇い、文盲の村民を集め無料で読み書きを指導した。子の真一が学齢に達したので内地から小学校の教科書を取り寄せ、村民達と共に机を並べて読書させた。勤務の傍、暇をみては教室を見廻り、日本語は自ら50音・単語・日用語を教え、時時課題を出して成績を調べ、優良者に1、2、3等を定め紙・筆・墨を賞し奨励した。もし我が子真一が1等の時は除外し次の者から賞した。後年、真一は子供心に不平で残念だったと述懐している。
勤勉な村民には懐を割いて購入した農器具を褒美に奨励した。
部落内の環境衛生の改善に対しては、村民を指導して住家の四周に排水溝を掘り汚水を流すようにした。
海岸の僻村副瀬では半農半漁に頼って生活するだけでも精一杯、海に近い農地は潮風に吹かれ海水の浸蝕で痩せ、竹丸太の下は地獄の小さな竹筏で獲れるのは安価な魚に過ぎず、村民の3食は千切り干し芋や芋の葉を主にした粗雑な農作物で糊口をしのぐ現状であり、竹筏に課せられる漁業税は苛斂誅求であった。
村民達は、敬愛し信頼惜しまぬ森川清治郎巡査に上層へ課税減免の嘆願を依頼した。
4月5日、定期召集から、その日の午後5時頃帰って来た森川清治郎は部民に対して悲痛な面持ちで語った。「税金の事については、自分のカではもうどうすることも出来ない。かえって支庁長より訓戒を受け、同僚に対しても面目がない。皆も苦しいだろうが、右のような事情だから国のためと思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。
語尾は怪しくふるえ、泣いて湧き上がる涙を部民に見せまいとして背を向け、宿舎に帰った。村民達は森川清治郎の悲壮な顔付きや涙を見て、何かしら不吉な予感に打たれ、非常に心痛してその夜は、壮丁5名で森川清治郎に気付かれように宿舎の外から見張りした位であった。
それから間もない午前9時頃、港の西南にある慶福宮から1発の銃声が虚空に響いた。突如の銃声に驚愕と不安を抱いて廟に駆けこんだ廟守の王棍は、常日頃父の如く慕っている森川清治郎が廟の南側に敷いた扉の上に仰向けに倒れているのを目のあたりにした。かたわらには咽喉を撃ち貫いた村田銃が冷たく光っている。突然の衝撃に王棍は茫然自失に立ちすくんだ。
続いて駆け寄って来た村人達は、慈父の様に愛してくれた森川清治郎の死体を見て声をあげて慟哭した。だが死体には近寄らなかった。後で、官憲に「お前達が殺したのだろう」と、嫌疑をかけられるのを恐れたのである。この様な本能にも近い強迫観念は、過去に幾多の政権の苛政を嘗めてきた植民地の人民としての無理からぬ悲哀である。
午前10時頃、真先に王棍が副瀬派出所に飛びこんできた。この悲報に接した村民2、30名は不意の驚愕に襲われる複雑な心情で森川夫人について慶福宮に駆けつけた。まもなく東石港支庁から急ぎ駆け付けた園部警部と同僚3、4名は現場の検視をした。
園部警部が遺品を点検すると、ポケットから一枚の名刺が出てきたが、それには「疑われては弁解の術もない、覚悟する」の意味が書き付けられていた。
この後、森川夫人がかけてきて「もう大丈夫だから皆寄ってきなさい」の涙声に、村民は森川清治郎の遺体にしがみつき涙した。
午後3時、慶福宮の西北110mの広場で村民の涙と同僚の哀悼の中、告別式を行い、その場で荼毘に付した。翌日、東石港支庁全員に部落民が参列して警察葬を挙行し、骨を富安宮の東南に在る公共墓地に安葬した。かくして森川清治郎は台湾の土と化した。享年42歳であった。
森川清治郎の自殺に上層部は、慌てて戒告処分を取り消した。
1935年、今川淵台南州知事は警察官の鑑として事蹟を表彰した。
李九は目が醒め、直ちに全村に森川清治郎の言葉を通達した。村民たちは、森川巡査の指揮下で整備された排水溝の掃除をおこなったところ、伝染病の流行をまぬがれることができた。
村人は、自分たちの父母や祖父母が慕っていた森川巡査が、死後もこの村を愛し、自分たちを護ってくれたのだと感謝した。巡査が自決した廟は建て直され、巡査自身が信仰の対象となっていった。
感激の極みに、村人は協議して名工を招いて、高さ1尺8寸の警察制服制帽を著した座像を精彫して義愛公と神称し、五府千歳と共に富安宮に供奉し、永久に村の守護として奉祀した。成道の日旧暦4月8日を大祭の日と定め、毎年盛大な祭典を挙行している。
御神体は近隣の朴子や嘉義市内のほか台湾各地10数ヶ所に分霊されている。
9時12分発の朴子行きバスに乗り、嘉義駅に帰り、嘉義農林学校の後身である嘉義大学へ向かった。