阿振肉包。鹿港。中山路。
2017年10月12日(木)。
彰化駅前の彰化客運バスターミナルへ行き、鹿港行きのバスに乗り、今夜の宿泊地である鹿港へ向かった。宿泊は歩き方にある「全忠旅社」を予定していた。「全忠旅社」は街のメインストリートである中山路にある。鹿港のバスターミナルは彰化客運と中鹿客運があり、彰化客運はやや町外れにある。バスの径路は分からなかったが、彰化駅から30分ほどで、バスが南西から中山路に入って北上したので、終点まで乗らずに、「全忠旅社」に近そうな中山路途中のバス停で下車した。
「全忠旅社」は安宿で、愛想のないおばさんが受付にいた。迷ったが900元で泊まることにした。ここはロケーションが良い。16時頃だったので、今日中に鹿港の観光を済ませることができそうに思った。観光対象は寺院と街路なので閉館時間というものはない。宿から100mほどの場所に有名な「阿振肉包」という肉まん屋がある。
阿振肉包。鹿港。中山路。
時間が遅かったせいか、肉まんは売り切れであった。予約済みの肉まんの箱が引き取り手を待っているだけだった。翌朝8時30分に店へ行ったら、肉まんはまだ出来ておらず、仕方なしに何も入っていない饅頭のみを買った。午後遅くや早朝は肉まんにありつけない。
鹿港は台湾西岸の中間に位置し、清の統治時代には天然の良港として貿易・商業の中心地として発展した。清朝時代には「一府(台南)、二鹿(鹿港)、三艋舺(台北の万華)」とよばれ、台湾中部の経済、交通の中枢であった鹿港の輝かしい黄金時代を表現している。
鹿港の名が文献上に現れるのは1784年である。この年鹿港と福建省泉州の間で航路が開かれ鹿港の黄金時代が始まった。1785年から1845年にかけてが鹿港の全盛期であり、人口は約10万と当時の台湾において第二の都市となっていた。
しかし時代が経つにつれ、港湾に河川の堆積物が堆積し、また日本統治時代に彰化平原の物産の輸送に主眼を置いたため鉄道の縦貫線は彰化駅、員林駅を経由することとなり、鉄道輸送網から外れた鹿港の経済的繁栄は終止符を打つこととなった。
鹿港は文化の古都であり、古跡級の廟が多く保存されている。また、あらゆる物資が集まり、繁栄を極めていたため、各地から移民が集まり、さまざまな郷土のグルメがもたらされた。このため、今でも他の地域に比べて名物料理が多く、海鮮料理のほか、各種中華菓子や独特な風味をもつB級グルメなどがある。
阿振肉包から南西方向へ歩き、龍山寺へ向かい、道標に従い、小道を南に入ると龍山寺へ着いた。
龍山寺。山門。
龍山寺は鹿港八景の筆頭に挙げられ、「台湾紫禁城」の異名を持つ第一級古跡である。
山門の屋根は重檐四垂頂という様式である。重檐とは4つの斜面からなる屋根の上にもう一つの屋根が乗っているもので、屋根をより高くそびえ立たせ、雄大さと荘厳さを引き立たせる効果がある。
台湾には府城(台南・1715年)、鳳山(高雄・1719年)、萬華(台北・1738年)、鹿港(彰化・1786年)、淡水(新北市・1858年)の5つの龍山寺があるが、その中で最も良好な保存状態を誇っている。
鹿港龍山寺の創建は一番古く、1653年(明鄭永曆七年、明末清初)に遡る。現在の建物は、北宋の宮殿を模したという建築様式が採用され、1786年(乾隆51年)に建立された。優美で独特な格式ある寺院建築として知られ、台湾に残る清朝時代の建築物では最高の建築とされている。
鹿港龍山寺の建物は西向きに建てられ、平面構成は方正になっている。敷地面積は、1600坪余りで、三進二院七開間といわれる建築様式は、全体が「日」の字型の合院式建築で、山門、前庭、五門殿(八卦藻井、戯台を含む)、中庭、正殿(拜殿を含む)、後庭、後殿と続いている。
寺院内の建物は奥に行くほど高くなり、順風満帆を象徴している。
五門殿。山門側から。
前殿ともいう五門殿には、縁起かつぎの絵や彫刻などがあふれている。
五門殿の中央に張り出した戲台の天井には、八卦藻井と呼ばれる八角形の豪華な天井がある。
戲台は神に感謝する芝居を演じるための舞台であるという。
五門殿。戲台の隅から中庭・拜殿・回廊。
中庭には、樹齢200余年のガジュマルの木が2本、対のように植わっている。
正殿(拜殿)。
前面の2つの柱は龍柱とよばれ、柱には花崗石製のとぐろを巻いた龍の石刻が取り巻いている。昇竜と降龍が絡み合う姿が彫られており、4つの爪で珠を掴み、口元に珠をくわえて2本の牙を覗かせる様子が生き生きと表現された石刻芸術の優品である。
正殿。内部。
正殿。内部。正殿には、「観世音菩薩」が祀られており、旧暦2月19日は観音媽の誕生日で盛大な祭りが行われる。
後殿。
正殿を過ぎると、後殿がある。
後殿。庭には井戸がいくつかあるが、参拝者がお金を投げ込むので、鉄柵で閉じてある。
後殿。黒づくめの服を着た女性が集団で参拝していた。どこかの秘密教団とは違うだろうが、台湾では宗教がまだまだ生きづいている。
龍山寺を出て、北の九曲巷方面へ向かうと、興安宮という古い廟に出会った。
鹿港興安宮。
興安宮は「興化媽祖宮」と呼ばれ、媽祖を祀っている廟の中で最も古い廟の一つである。康熙23年(1684)に福建省興化府の人々が台湾に移住し、鹿港草仔市の辺りに廟を建てた。「興化平安」や「興化安寧」などの意味を持ち「興安宮」とよばれている。光緒12年(1886)と光緒21年(1895)に再建され、1985年に第三級重要文化財に指定された。興安宮の造りは「單開間兩進一院」で、前埕、三川殿、拜亭と正殿から成る。廟は「街屋」式(細長い長屋のようなもの)で、門の前には興安町、後ろには中山路がある。
十宜楼。九曲巷。
十宜楼はかつての鹿港の文人たちの集会所であった。通りを跨いで二つの建物を繋ぐ「馬廊」がある。
十宜楼。九曲巷。説明。
かつて鹿港と厦門間で貿易していた最大の卸売商社であった「慶昌号」が残した古建築である。脇にはトーチカがあり、防御の役割を果たしていた。
「琴、棋、詩、酒、絵、花、月、博打、煙草、茶」の十種の宜しき事があるということで、文人たちが集まっていた。
十宜楼。九曲巷。説明。
金盛巷という通りをまたいで東西2つの建物をつないでいた。
十宜楼。九曲巷。説明。
十宜楼。九曲巷。
九曲巷。
九曲巷は、強い季節風をさけるために作られた曲がりくねった路地の名前である。毎年中秋節が過ぎると、黄土の砂が舞い上がるのを防ぐため、赤レンガの家屋10軒ごとに一曲がりという細い複雑な迷路にした。
九曲巷。昔子供たちは風を避けたこの細い路地内を遊び場としていた。
「九曲巷」内の道の交差点はすべて十字ではなくT字なのも風除けのためである。
九曲巷。狭さで知られる。
北の天后宮方面へ向かった。