2017年10月15日(日)。
台北からの日帰り旅行。午前から昼にかけて日東紅茶のルーツである大渓老茶廠を見学して、14時頃に台鉄桃園駅のバスターミナルへ戻ってきた。次は、日本統治時代の神社が残る桃園神社の見学である。
桃園神社は2016年の台湾旅行後に、ネットを見ているうちに偶然知った。日本統治時代の外地の神社では珍しく当時の社殿がそのまま残されている唯一の神社跡であり、映画KANOのロケ地ともなったという。
場所は桃園駅北東約1.5㎞の虎頭山中腹にあり、桃園客運市内バス「105番」に乗って「栄民総医院バス停」下車という。
バス乗り場08番全国電子は桃園駅北の新光三越北の復興路西北にある。
本数は1時間に2~3本。乗車時間は10分ほど。
リーフレットによれば桃園客運市内バス「125番」、中壢客運市内バス「127番」も「栄民総医院バス停」を通る。
虎頭山の山裾の道を進むと、車の先に右上へ昇る階段と桃園忠烈祠への道標が見えた。
桃園神社の創建は1938(昭和13)年9月23日とされる。
桃園神社(とうえんじんじゃ)は、日本統治時代の台湾新竹州桃園郡桃園街大檜渓(現・桃園市桃園区)にあった神社である。現在は桃園市忠烈祠となっている。日本統治時代の外地の神社では珍しく当時の社殿がそのまま残されており、台湾の国家三級古蹟に指定されている。
日本統治時代、台湾では皇民化運動が推進され、1931年(昭和6年)日本政府は「一町一社」と称して、台湾全土で神社建設を促進した。その結果台湾全島で200余りの神社が建立された。
台湾の神社のほとんどはこの時期に作られたものである。桃園神社は1935年(昭和10年)に創建が決まり、1937年に桃園郡役所庶務係員の春田直信が設計。1938年(昭和13年)6月10日に落成、鎮座式が行われた。社格は県社で、北白川宮能久親王・大国魂命・大己貴命・少彦名命・豊受大神・明治天皇を祀っていた。
戦後、神社の多くは破壊あるいは改築され、桃園神社は新竹県忠烈祠に改称(当時はまだ桃園県はなかった)、1950年に桃園県忠烈祠となった。中には鄭成功、劉永福、丘逢甲の像と反清・抗日の殉国の烈士の位牌が置かれた。
1972年、日本と台湾が断交したとき、政府は「日本統治時代の日本の帝国主義的なものは全て取り除く」との命令を発し、それにより各地の神社が破壊された。
桃園神社(桃園県忠烈祠)は住民の反対、また一部の学者が「神社とはいえ、唐風の建物が中国伝統建築様仕の保存ともいえる。」の論述を提出する事によりそれを免れ、日本統治時代のままの姿を保った。1985年、政府は桃園神社を忠烈祠として再建する計画を出したが、世論と学界の強い反対により、886万元をかけて修復を行い、1987年に完成した。1994年2月15日、国家三級古蹟に指定された。2015年からも大規模な改修工事を行い、2017年3月に修復工事が終了した。
桃園神社の鳥居は明神鳥居形式を採用している。早期の鳥居は大部分が木造であったが、昭和初期に入ると、建材の入手が困難となり、鉄筋コンクリートを柱に洗石を貼る方式に改められた。もともと三つの鳥居があったが、現存するのは二つである。忠烈祠に改まった際に、多少の手が加えられている。
1980年代半ばに、建物の老朽化が進んだため忠烈祠再建計画が持ち上がったが、文化人や周辺住民の反対運動がおき、現状保存を基本に改修が施された。
敷地の高低を巧みに生かした立体感が、荘厳な佇まいを際立たせる。建築にはヒノキ・スギの原木がつかわれ、無駄な装飾を排した木組みの美しさは台湾の廟宇建築にはみられないもので、歴史文化的に価値が高いと評価されている。
手前は10台ほどの駐車場。数台停まっていた。
「栄民総医院バス停」から桃園駅へ向かう。台鉄の区間列車で17時頃台北駅まで帰った。本日は一日中雨だった。