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台湾 新北市 「十三行博物館」 十三行文化 その1

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MRT
関渡駅から路線バスに乗り、淡水河を渡る。
20171017日(火)。
本日は台北の北西郊外の新北市にある「十三行博物館」と淡水の見学。一日中、雨だった。
MRT淡水信義線関渡駅からバス「紅13R13)」に乗り換え、25分ほどの乗車で新北市八里の「十三行博物館」へ向かい、920分ごろ到着した。
 


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十三行博物館。新北市八里。
十三行博物館は台湾北部唯一の考古博物館である。国家規模の考古博物館は台湾南東部台東市の国立台湾史前文化博物館しかない。
十三行博物館は変わったデザインをしていた。多くの若い女性が博物館に向かっていたのは、研修会のためのようだった。
玄関らしき場所で多くの人々が集合していたので、雰囲気的におかしいと思い、左から海岸方面へ回り込んでしまった。
 
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西側から眺めた十三行博物館。
 
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十三行博物館北の公園。
 
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太陽祭」」「射日高台」。
 
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公園の案内板。「太陽祭」」「射日高台」。
嘉義には射日塔がある。太陽を射るというモチーフは平埔族を含めた原住民族共通の神話的モチーフのようだ。
 
歩き回っても、入口は海岸側にないことが分かったので、先ほどの玄関へ戻った。入館料80元。
小学生の団体が多い。
 
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八里の地層変化。
八里の地層を地中深く掘って調査した結果、挖仔尾から十三行遺跡までの一帯は、1万年前は陸地であったが、1万年前から6千年前にかけて地球の海面が上昇したために、水没したことが分かった。
6千年前に、沈殿物が堆積して陸地となったことで、約1800年前に十三行人が大規模に定住するようになった。
近年、台北港の防波堤構築で、淡水河河口の南、防波堤の北の海岸に砂が急激に堆積している。
 
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十三行遺跡の発掘風景。
十三行文化の標式遺跡である十三行遺跡は、淡水河の南岸八里区にある1800年前から500年前の鉄器時代文化の遺跡で、陶器、鉄器、煉鉄炉、埋葬品などが発見され、墓跡や村落の遺跡も残されている。
 
地理的位置の近さと出土した陶器の類似性から、十三行人と平埔族ケタガラン族の間には密接な関係があったではないかとみられている。
 
遺跡の所在地である「十三行庄」の名前の由来は中国の清朝時代の伝聞から来ており、かつてここには重要な貿易港があり、13軒の商家(行)が並んでいたからという。
また、原住民がよんでいた地名を音訳したものという説もある。
 
スペイン、オランダ統治時代に、八里には平埔族の集落「八里坌社」があった。清朝統治時代に漢民族が移民してきて、この港町は北台湾を開拓する重要な拠点となり、隆盛を極めた。
 
民国四十四年(1955年)の秋、一人の空軍パイロットが観音山上空を飛行した際に、羅針盤の磁力の異常に気づき、鉄鉱脈を発見したものと思って、早速、地質学者の林朝棨氏らを伴って探索に来たところ、地面に鉄の塊と鉄くずが散乱していた。その後、それは台湾の先史時代の人類が製鉄を行った遺留品であると分かり、史前遺跡と断定された。
 
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台湾の平埔族。台南白河のシラヤ族夜祭。
シラヤ族(西拉雅族)は台南、高雄、屏東に居住している。
 
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台湾の平埔族。台南白河のシラヤ族夜祭。
 
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台湾の平埔族。花蓮新社のクバラン族(噶瑪蘭族)樹祭。
クバラン族(噶瑪蘭族)は台湾原住民の一つ。宜蘭県宜蘭市、羅東鎮、蘇澳鎮及び花蓮県花蓮市、豊浜郷、台東県長浜郷などに分布している。人口は約3,000人。元来は宜蘭県の蘭陽平原一帯に居住していたが、漢人と同化が進んだものは宜蘭県でホーロー人となり、同化を拒んで南に移動したものが、花蓮県豊浜郷新社村などに独自の言語と習俗を保っている集落が存在する。
 
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台湾の平埔族。花蓮新社のクバラン族(噶瑪蘭族)樹祭。
 
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台湾原住民族研究のパイオニア伊能嘉矩(かのり、
1867年~1925年)。
 
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十三行文化。集落の生活絵図。

十三行人の生計活動、交易、墓葬、工芸技術、服飾、家屋と集落など、各方面にわたる生活様式をあらわしたもの。

現在知られている1000年ほど前の原住民の中で、十三行人が唯一製鉄の技術を持っていた。また、彼らは鉄器をもって付近の部族と物々交換を行っていたことがうかがえる
 
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展望台から東方向。観音山北西麓の大坌坑遺跡方向。
 
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音山北西麓の大坌坑遺跡案内図。
 
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台湾先史文化の変遷。
 
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台湾先史文化。陶器の変遷。
台湾の新石器時代は早期・中期・後期・晩期の4 期に区分される。
 
早期の大坌坑文化では、「粗縄紋陶」と言われる縄蓆文土器が用いられた。
中期には円山文化と牛罵頭文化が現れ、それぞれ茶色の無文土器、赤みを帯びた縄蓆文土器が用いられた。牛罵頭文化の次に黒陶の縄蓆文土器を用いる營埔文化が続き、晩期には、土器から縄蓆文装飾が消えて彩陶土器が出現、器形も変化する。
 
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大坌坑文化。
大坌坑文化はBC5000年からBC3000年にかけて栄えた新石器時代早期の文化。海岸、河口の近くに集落があり、海洋資源をもとにした文化である。
 
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台北盆地・淡水周辺の遺跡地図。
 
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湾北中部の遺跡地図。
新北市の大坌坑遺址、台北市の芝山岩遺址、台南市の八甲遺址、澎湖島の菓葉遺址、高雄市の鳳鼻頭遺址、台東県の長光遺址などが代表的な遺跡である。
 
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台湾中南部の遺跡地図。
 
大坌坑文化は全島に分布している。中国大陸浙江省の河姆渡文化と関連すると考えられる。
大坌坑文化人は根茎類作物を植え始め、4000年前に穀類農業時代に入ったが、漁と狩猟も重要な生業であった。大坌坑文化は牛罵頭、牛稠子文化などに引き継がれる。
 
台湾原住民族の祖先は、南島語族(オーストロネシア語族、マレー・ポリネシア語族)の農業民族で、中国華南地方や東南アジアから台湾に移り住んで、今日の原住民族を形成したとみられる。
 
台湾の新石器時代の文化の担い手が台湾原住民なのか言語資料がないので確かめることはできない。わずかにBC300年前から始まる十三行文化の担い手は台北周辺に住んでいた平埔族のケタガラン族であると考えられている。
 
平埔族の言語は、台湾南島語族の一員に数えられ、いずれの平埔族の言語もアミ族やパイワン族と同じパイワン語群に分類されている。
かつて台湾の平野部に居住していた平埔族は漢人と数百年にわたる接触を経て、現在ではその固有の文化と言語はほとんど失われ、一方で台湾の漢人もかなりの比率で平埔族の血統が融合している。

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