2017年10月17日(火)。10月19日(木)。
淡水の見学を終えて、MRT淡水駅へ向かい、その後、雨と汗に濡れた体を癒すために、途中下車して、新北投温泉の「瀧乃湯」へ入湯することにした。
2016年11月に瀧乃湯を訪れたが、改装工事のため入浴できなかった。2017年から営業を再開したので、楽しみにしていた。
16時30分頃、MRT新北投駅で下車し、右側の光明路を進むと、公園にある温泉博物館(旧台北州立公共浴場)が瀧乃湯と交代して改装休業中になっていたのには笑えた。その先、右の山側にひっそりとした瀧乃湯が見えてきた。
瀧乃湯の入浴料は150元と安く、裸のまま入れるし、台北中心部から交通至便なので、翌々日の19日にも入浴した。
瀧乃湯は温泉銭湯で、戦前から続く温泉銭湯は、台湾全土を見回してもここだけである。
創業年月は不明だが日本統治時代の明治40年(1907年)前後とする説が多い。開業当初は露天風呂の男湯のみだったが、大正12年(1923年)の昭和天皇(当時は皇太子)北投温泉行啓に併せて建屋を作り、その際に女湯も作られた。
1945年の台湾光復により、中華民国陸軍が接収し、後に国有財産局によって競売にかけられ、林添漢が落札し、以降はその子孫が経営している。
史跡や建造物として指定文化財になってもおかしくない。
建屋は番台・男湯・女湯・家族風呂で構成され、それぞれ浴槽と洗い場、脱衣場から構成されている。規模は小さいが、ごく普通の日本の立ち寄り湯と同じである
泉質は酸性緑礬泉でラドンを含んだ「青温泉(青礦)」。PH1.2と強酸性。なお、浴槽内の湯温は高く44度前後である。
番台で料金を払うときに、おばさんから「お湯で顏を洗うな」といわれた。確かに、眼に入った湯は刺激的であった。秋田県の玉川温泉もラドンを含んだ強酸性の温泉で硬貨がボロボロになっていたことを思い出した。
湯槽も手前のは熱く、熱いそぶりを示したら、客が手で教えてくれた奥の低温の湯槽に入り直した。
湯槽の横で数人が寝そべっているのも日本の温泉の感覚に近い。客はほとんどが台湾人であるが。
玄関手前右に東屋があり、その先に石碑がある。これが有名な「皇太子御渡渉記念碑」である。2016年の訪台時に、片倉佳史著『台湾に生きている「日本」』を読んで是非見たいと思っていた。改修前と違って、石碑の周りは小さな石垣で囲まれている。
この石碑は大正12年4月25 日に裕仁皇太子(昭和天皇)が台湾を視察した際に北投温泉の台北州立公共浴場(現・北投温泉博物館)に立ち寄った記念として建てられたもので、戦後は台湾人の好意により奇跡的に残ったものである。もちろん、皇太子はこの銭湯にやってきたのではない。
石碑には「皇太子御渡渉記念」、「大正十二年四月」と記されている。高さは148 ㎝。台座はなくなっている。
戦後、国民党政府は日本人の建てた石碑を敵性遺産として扱い、数多くの石碑を撤去した。瀧乃湯と公共浴場の間の北投渓の畔に建てられていたという、この石碑も一度は倒された。
むやみな横暴を働く外省人への不信感や、やみくもに石碑を破壊して回る行為への不快感もあって、その様子をしのびなく思った浴場の先代主人は仲間とともに夜間を狙って遺棄された石碑をこの銭湯の庭先に運び込んだという。
当時は白色テロという嵐が吹き荒れており、目立つ場所に置くことはできないが、人前で裸体を晒すことを嫌う外省人は大衆浴場を好まないので、銭湯の庭先なら、外省人官吏の目につくことが少なかったのだ。こうして、皇太子御渡渉記念碑は現代に残った。
石碑に満足して、中山国小駅近くのゲストハウスに戻り、スーパー頂好まで歩いて、土産を買った。
2017年10月18日(水)。
本日は台北当代芸術館(旧建成小学校舎)、芝山巌、円山遺跡を見学した。
台北当代芸術館も瀧之湯と同じく片倉佳史著『台湾に生きている「日本」』で知った建物である。
MRT淡水線中山駅で下車、南に歩いて角を西に曲がるとすぐに見つかった。赤レンガに南国の木がよく似合う建物で、右側の入口は売店への入口で、黄色い車の左に中央玄関があり、美術館の入口となっている。入場料50元。
台北当代芸術館( Museum of Contemporary Art Taipei; MOCA Taipei)は現代美術館である。日本統治時代に建てられた小学校の建物を利用しており、台北市の市定古蹟に「臺北市政府舊廈」としても認定されている。
元々は1919年に日本統治時代の建成小学校として建てられた。設計は近藤十郎。
1946年から1993年までは台北市政府庁舎として使用された。1994年に市政府が信義計画区へ移動した後は使われていなかったが、、2001年5月に「台北當代藝術館」としてオープンした。建物の一部裏側は建成中学校として使われている。
1920年ごろに詔安尋常小学校として開設され、1940年の増築後、1941年に建成国民学校と改称されたともいう。建設年についても1919年、1920年、1921年と諸説がある。
レンガ造2階建ての建物は、正面入り口に張り出したポーチ(車寄せ)をもつ。金属板で葺かれた寄棟造屋根の上部には塔を持ち、塔との間にはドーマーウィンドウ(明かり取りの窓)が配されている。このポーチから塔で構成される正面部分を中心として左右対称に各部屋が置かれる。これらの部屋はかつての教室であり、間取りはそのまま生かして展示がなされている。
中学校部分はこの裏手にあたる位置にある。
中央に高塔、両翼隅に翼塔を設け、中央高塔の上方には鐘楼がある。
ポーチの両側に造形された柱型の柱頭はアカンサスの装飾を持つコリント式。
ポーチ正面アーチ上部の装飾。
1921年建成小学校として建築されたという。正面の長さは120m。亜熱帯文化のレンガと木材で小屋組みを構成し、西洋式の柱飾りを採用した。コの字型の平面配置である。
木骨レンガ積み。黒スレート瓦葺き。両翼は東アジア的な山型の屋根をもった入口を有す。
職員に訊ねると、戦後に建てられた塔で、中学校の敷地にあるという。
正面へ戻り、通り沿いに進んで、同じく市定古蹟となっているという日本統治時代の1921年に建てられた旧・職業紹介所・台北市衛生院であった建物の見学に向かった。