2017年10月17日(火)。
淡水紅毛城を出て、北東側に隣接している真理大学のキャンパスの見学に向かった。
すると、庭園の向こう側に洋風の建築物が見えた。これが、1882年に建てられて現在の真理大学の起源となった最初の校舎・牛津學堂(Tamsui Oxford College)である。西洋式教会の尖塔は洋風建築ではあるが、三合院式という中国建築の要素も取り入れている。
真理大学は、台湾基督長老教会の大学で、1965年に「淡水工商管理専科学校」として開校し、1994年「淡水工商管理学院」と改称、さらに総合大学化して1999年に「真理大学」と改称した。
カナダ人宣教師マッケイ博士が1882年に開いた、台湾で最も古い西洋式教育施設「牛津學堂」を起源としている。
正式には理學堂大書院とよばれる。現在は、北部台湾基督長老教會史蹟館、馬偕紀念資料館、真理大學校史館となっている。
受付には学生が座っており、入場は自由である。
牛津學堂はマッケイ自らが設計デザインも行ったという。
馬偕(1844年~1901年)は、スコットランド系カナダ人の宣教師、医者、教育者で、本名はジョージ・L・マッケイ(George Leslie Mackay)。
1871年にカナダ長老派教会ミッションとして台湾へ移住し、翌年より淡水鎮を中心にキリスト教の宣教を始めた。そして1880年までの間に淡水・五股・苗栗・台北・基隆・新竹などに二十以上の教会を設立した。その後も宜蘭、花蓮などの台湾原住民の居住地へ赴き、台湾北部に布教を行った。台湾基督長老教会の生みの親の一人。
1878年に台湾人女性と結婚。キリスト教の布教以外にも医療活動や教育活動にも熱心で、1882年には現在の馬偕病院の前身である滬尾偕醫館を設立。
また、同年に北部台湾で初めての西洋式教育を行う学校である牛津學堂(Tamsui Oxford College、現在の真理大学)を故郷のカナダ・オックスフォード郡の牧師と信者からの寄付を受けて創設した。
1896年には当時の台湾総督であった乃木希典の訪問を受けた。
台湾における医療への貢献度は高く、今もなお、キリスト教徒以外の台湾人からも「馬偕博士」と呼ばれ、親しまれている
このあと、雨の中、キャンパスを北に進むと、図書館、コンビニがあったが、学舎が途切れたので、淡水河側へ戻り、キャンパスを出て、南東方向へ小道を歩くと、淡水紅毛城の入場券で入場できる「前清淡水税務司官邸(リトルホワイトハウス)」の前に着いた。
清時代の1870年に、英米人に委託した税関長の官舎として建設された。
淡水は、淡水河が海に出る河口に位置しており、古くは「滬尾(こび)」とよばれていた。滬尾は平埔族の言葉で河口というhobeが語源という。
「淡水」という名は、以前ここが河や海をゆく船舶が「淡水」を補給する重要な拠点であったことからきており、西洋人が編集した文献は全て、淡水の発音が表記されている。
17世紀から淡水は東アジア貿易のターミナルとして、台湾北部で船舶が往来する際の重要な港となり繁栄した。
1862年に淡水が正式に開港通商し、清朝は税務司公署を滬尾洋関として設置した。清はイギリス人やアメリカ人などを副税務司として雇って関税事務を管理させた。外国人スタッフのために1866年に土地を買い入れ、1869年頃税務司官邸が建てられた。
官邸の建築はコロニアル様式で、スペイン風の回廊に広い庭園スペースを持っていた。
建築の土台は1mあり、通気穴を設置して、湿気を防いだ。
白灰色の外観から小白宮とよばれた。四方に広がった屋根は雨などの排水を良くするための工夫が施されている。
日本統治時代になると、基隆港に税関・貿易の主力が移転し、淡水税関の取扱量は減少していった。淡水税務司官邸は集会所・宿舎として使用されることが多くなり、1896年には領台1周年を記念して、伊藤博文が來台したときに一泊したという。
1900年5月10日、日本人税関長が税関職員を中心とした「五十会倶楽部」を発足させた。その倶楽部の招待所として官邸が使用されることとなった。
第二次大戦中は地元の淡江中学の学生寮として借り上げられていたが、その後は荒廃して「化け物屋敷」とよばれる状態となった。
1995年ごろに、官邸を取り壊して職員宿舎として建て替える計画が流れると、地元や識者から反対運動が起こり、1997年に保存が決定。公開されることになった。2004年に修復された。
雨の中、旧淡水税務司官邸を出て、バス通りの文化路へ坂道を下ると、「多田榮吉故居」への道標があったので、立ち寄った。
淡水街長多田栄吉故居は、1930~1933年に淡水街の第4代街長を務めた多田栄吉が1934年に建設した日本式住居である。敷地面積は約100坪に上る。建材にはタイワンベニヒノキが使用された。
多田榮吉故居は、2005年に古跡に定められ、淡水エリアで初めて古跡指定された日本邸宅である。もあります。2014年末に修復工事が始まり、2016年7月にようやく一般開放された。
修復工事後、邸宅の外観は、日本風情を感じられる木の門、赤煉瓦の塀に変わり、気根が垂れ下がるガジュマルと石畳に沿って歩くと、庭には小さな池がある。
内部は「座敷」「次の間」「茶の間」「寝室」「台所」「風呂」「便所」に分かれており、「座敷」の床の間には、掛け軸と花が飾られている。
「縁側」からは住居が見晴らしの良い港の高台にあることが感じられ、淡水河河口や対岸八里の觀音山を望むことができる。
日本統治時代の淡水で有名な起業家であり、また地方役員も務めた。1864年に神戸市元町通りに生まれた。1897年(明治30年)に台湾へ渡り、台北で起業し、電気機材やビールを扱った。1905年淡水へ引っ越した後に、帝国在鄉軍人分会名誉会員、第1期淡水街協議会員、台北州税務課所轄郡部所得調査委員などの職を歴任した。1930年(昭和5年)に、淡水街第4期街長に任命された。終戦後は神戸へ帰国した。
このあと、バスに乗ってMRT淡水駅へ向かい、その後、雨と汗に濡れた体を癒すために、途中下車して、新北投温泉の「瀧の湯」へ入湯することにした。