2017年10月17日(火)。
淡水河フェリー乗り場から海岸沿いを歩くと、観光案内所があった。観光用リーフレットを入手して、淡水紅毛城などへのアクセスなどを尋ねた。係員の女性は近くの大学の女子大生が交代で務めているとのこと。
幹線道路を進み、右上の脇道を登ると淡水紅毛城の洋館風の入口があった。入場料は80元で、紅毛城、リトルホワイトハウス、滬尾砲台の三カ所に入場できる。
淡水紅毛城は英国領事館であった建物で、紅毛城(アントニオ城)と英国領事館官邸という二つの主要な建物で構成されている。
紅毛城とは17世紀に現地人がオランダ人を紅毛とよんだことによる。
淡水紅毛城は1628年、当時台湾北部を拠点としていたスペイン人により建設され、スペイン勢力撤退後はオランダ人により1644年に再建された。1867年以降はイギリス政府に租借され、当時のイギリス領事館が業務を開始し、それは1980年に中華民国政府に所有権が移管されるまで続いた。紅毛城は台湾に現存する最古の建築で、国家一級古跡に指定されている。
スペインは1626年に現在の基隆和平島にサン・サルバドル城を建設、1628年には淡水にセント・ドミニカ城を建設し、後者が今日の紅毛城の前身となった。
スペイン人は淡水を淡水河水運統治の中心とした。1632年、スペイン人は台北盆地に進出、淡水河沿岸の原住民を服従させ、淡水から基隆までの道路を建設、水運以外の交通を整備しその勢力を新竹一帯まで拡大させた。
1642年、オランダ勢力はスペイン人がフィリピン、ルソンでの混乱で台湾経営に集中できない状況を利用し北部に進出、紅毛城は無血開城しスペイン勢力が台湾より駆逐されることとなった。台湾北部に進出したオランダ人は1644年からセント・ドミニカ城を改築、1646年に完成しアントニー要塞と命名した。現存する紅毛城の大部分はこの時建築されたものである。
1662年、鄭成功はオランダ勢力を台湾から駆逐した。台湾北部に進出した鄭成功は、左武衛何祐に淡水防衛のための紅毛城の修理を命じた。1683年に鄭氏政権が清朝に帰順すると紅毛城は一旦放棄された。1724年に修理が行われ、城壁や城門を加えた統治拠点となった。しかしその後は政策の変更もあり、紅毛城は漸次防衛機能を失い廃墟と化していった。
咸豊年間、英仏連合軍に敗れた清朝は1851年、北京条約により淡水を始めとして基隆、安平、打狗を開港、これにともない各港には各国の商社及び領事館が設置されることとなった。
当時台湾北部では茶葉と樟脳の輸出が増大しており、イギリスは清朝と1863年に紅毛城の99年間の租借協定を締結、紅毛城内に領事館を設置し、イギリス人約10名が居住していた。
1895年に日本による台湾統治が開始されると、1912年にイギリス政府は日本政府との間に再び租借協定を締結した。1941年の太平洋戦争が勃発すると日本軍により紅毛城は接収される。戦後は再びイギリスに返還されたが、1972年の台英断交によりイギリス領事館は撤退、オーストラリア、アメリカなどにより管理されたが、1980年台湾政府に返還され、1984年から一般開放された。
紅毛城の外観はオランダ統治時代は灰色であったが、英国が租借したのちに外壁が赤色に塗り替えられた。外城壁の厚みは1.9mにも及ぶ。
領事館は英国領事が招聘した英国人建築士が設計し、1891年に完成した典型的なコロニアル様式の2階建て建物である。建築資材はほとんどが台湾内で調達され、外壁には清水紅磚、屋根には台湾閩南式赤瓦が使用されている。
領事館官邸一階西側は客間と書斎、東側は食堂およびキッチン、後側はランドリーと使用人の居室があった。
領事の居間であった。暖炉とフランス式の窓。英国製の幾何学模様の色タイルは1891年当時のもの。天井の電動ファンは英国製で1941年以降の設置。
領事が読み書きをする部屋。暖炉とフランス式の窓。
領事および客用のダイニングルーム。
二階には三つの寝室と倉庫があった。
当時、官邸の回廊はアフタヌーンティのサロンとして使われた。庭にはバラの花が咲き乱れていたという。
紅毛城を出て、北東側に隣接している真理大学のキャンパスの見学に向かった。