2017年10月18日(水)。
MRT中山駅南の台北当代芸術館・中山藏藝所・中山市場を見学後、先史遺跡の圓山遺跡を見学するためにMRT圓山駅へ向かった。駅のすぐ北東に円山らしい丘が見える。
南東には大きなスタジアムがあり、公園の多い地区である。有名な円山大飯店は北側の基隆河を越えたもう一つの丘陵地帯にある。
円山の標高は約36mで、先史時代の台北は台北湖という淡水湖が広がり、円山はその中の小島であったと考えられている。1896年から1999年までの複数の発掘調査により円山遺跡は台湾地区では珍しい多文化層遺跡であることが確認され、これまで漢人文化、植物園文化、十三行文化、円山文化、訊塘浦文化、大坌坑文化、先陶文化、の6つの文化層が確認されている。
1897年:伊能嘉矩及び宮村栄一が円山西麓で円山貝塚を発見。その後の調査で玉器、陶器、骨角器や墓葬などを発見した。
一般には円山文化は1897年に日本人の伊能嘉矩及び宮村栄一により初めて発見された遺跡を示す。当時発見されたのは紀元前2800年から紀元前500年前の遺跡であり、大坌坑文化を継承して台北盆地で発展した先史文化であった。この文化は現在の円山、芝山岩、関渡、大坌坑、五股、中和の淡水河両岸及び新店渓下流、基隆河沿岸から基隆港までの平原部に広く分布するものであった。
圓山遺跡は国家第一級古跡に指定されているが観光地ではない。場所は事前にグーグルマップで調べると、円山の東麓であったので、現地でもグーグルマップを見ながら探索していった。
結果的には、円山の西麓にあり、1時間近くロスしてしまった。MRTの改札出口の地図を見たときに西麓に図示してあるので奇異に感じたが、グーグルを信じて失敗した。
円山を南東から北に進むと、テレビ局と警察署があった。道路を挟んだ東側には台北故事館が見える。円山の山頂に向かう道路が南西方向に昇っており、入口から少し昇った位置に灯籠が置かれていた。
円山大飯店の場所に、台湾神社があったことは有名で、灯籠も某所に遺されていることは知っていた。台湾神社は1901年に創建され、参道には多くの灯籠が立てられた。戦後、神社が廃止されたのちに現在の場所に移転された。
台湾神社の灯籠。下部の寄付者名簿。
付近を探索したが、圓山遺跡らしきものは見つからず、南側の施設方向から下山した。
円山南西麓の護国禅寺から北へ歩くと、円山方向に透明プラスチックの圓山遺跡案内板が連続していたので驚いた。
圓山は台北盆地の東北、基隆河南岸の小丘。標高は約36m。台北湖時代は島または半島の一部であった。
伊能嘉矩による圓山貝塚の発掘調査は、研究史的に「台湾における最初の考古学的調査」と評価されている(宮本1939、金関・國分1950)。
台湾先史時代遺跡の「発見」- 台北市「圓山貝塚」をめぐる調査史。
小田静夫。『東南アジア考古学30』2010.12所収。
先史時代、台北盆地の東部には「台北鹹水湖」という大きな湖が形成されていた。圓山遺址は、この湖岸に向かって東北部山麓から張り出した丘陵の先端部に存在した「小島」に立地していた。
遺跡地は、台北盆地を貫流する淡水河と基隆河が分岐する基隆河左岸(西南岸)に位置している。遺跡地の標高は30m程で、圓山山丘上の山麓部と中腹部の二つの地域に集中した遺跡範囲が確認されている。遺跡の面積は400m×350mの規模。1988(民国27)年4月25日、国家第一級古跡に指定される。
圓山遺跡は台北鹹水湖に張り出した丘陵先端部の小さな島の集落遺址で、この湖沼で漁撈を営み、山麓では狩猟を、また山麓の斜面や平地では農耕(稲作も)をも行っていた。遺構としては大小の貝塚群から形成されている。遺構としては、住居の可能性のある柱穴群、灰層址、墓壙群などが確認されている
圓山文化(圓山期)の土器は、砂粒の入った手造りの淡褐色土器と少ないが彩文土器(郭2002)がある。ほとんど無紋であるが、文様としては押捺文、網目文がある。器形は丸底の甕や脚台付の甕、鉢、盆、瓶などもある。甕には口縁部から肩部にかけて一対の橋状把手を有するものや、また双口甕も存在している。
石器には有肩石斧、有段片刃石斧、磨製の石鏃、有孔石鏃、箆形石器、漁網錘、砥石、凹石などがある。装身具には玉玦、玉環、玉佩、石製小玉がある。骨角器にはヤス、銛先などがある。また戦前には巨大な大砥石が発見されている。遺構には甕棺葬法の仰臥伸展葬があり、埋葬人骨からは首狩りの風習や抜歯の痕跡が認められている
伊能嘉矩は渡台した1895(明治28)年11月に臺灣総督府嘱託になり、12月には「臺灣人類學會」を設立している。また1896年1月には台北近郊の芝山厳で先住民族と銃で交戦し、その後4月には粟野傳之烝が勤務している国語学校の書記にも兼任している。
伊能嘉矩は1897年3月7日に台北近郊の圓山で貝塚を発見し、1897年4月に金沢人類學會員の宮村榮一が渡台してきたので、伊能嘉矩は二人で圓山を訪れ「貝塚」を確認し「発掘調査」を行い多数の有・無紋土器の出土があった。これが多くの概説書で、圓山貝塚を最初に発見した経緯として定説化している
日本人の人類学・考古学研究者は、台湾先史学研究の端緒を1897年の「圓山貝塚の発見」としている(宮本1939、金関・國分1950)。
しかしこの見解は間違いであり、その前年の1896年にすでに「芝山厳」で「石器」が発見されている事実であると、台灣大學文學院考古人類學系の宋文薫が1951年に指摘している。
つまり台湾で初めて考古学的資料が確認されたのは、1896年の春に粟野傳之烝による台北近郊の「芝山厳」での「石斧」の発見である。
また同じ年の秋には、鳥居龍蔵が台湾東海岸調査で「打製石斧」を発見している。
台湾文化編年の西海岸北部地区、新石器時代中期の「圓山文化(圓山期)」の標準遺跡である。
圓山貝塚の発掘調査は、戦後になって台湾人考古学・人類学者らによって本格的な学際的手法で行われた。
現在までの発掘調査で、舊石器時代晩期持續型文化(10,000~6,000BP)、大坌坑文化(55,000~5,000BP)、訊塘埔文化(4,500~3,500BP)、圓山文化(3,500~2,500BP)、植物園文化(2,500~1,800BP)、十三行文化(1,000~400BP)の6枚の重複した文化層が確認されている
芝山巌を見学するため芝山駅へ向かう。