2017年10月18日(水)。
芝山岩は小さい丘の名で、日本統治時代初期に起きた日本人教師6名殺害事件である芝山岩事件で知られている。また先史時代の芝山岩文化時代の標式遺跡としても知られる。その両方を見学するつもりであった。
圓山遺跡を見学して、MRT芝山駅で下車し、東へ歩く。芝山岩事件関連の石碑は芝山北東端の階段上山頂部にある。
芝山岩は標高51.8m、東西長約400m,南北約150mの丘である。駅から10分ほどで、芝山岩の南端に着くと、芝山巌恵済宮の入口が見えた。
丘は地元民のウォーキングに利用されている。
芝山巌恵済宮が目的ではないので、北東へ歩道をさらに回り込むと、駐車場に着いた。丘上へ昇る階段もあるが、ネットで見た石段でないのでさらに、北東へ回り込んだ。
1915年に台湾総督府が台湾教育会の名義において士林住民の寄付により造成した。石段は実際には120段ほどあり、その上に1930年に芝山岩神社が設けられていた。
毎年2月1日には参拝行事があり、「仰之彌堅,望之彌高的精神」の気持ちを込めて、この石段を昇っていった。
芝山岩は当初は「圓山仔」とよばれたが、18世紀に中国福建省漳州から大量の移民がこの地に移住し、丘の付近を八芝蘭(今の士林区)とよび、丘の風景が漳州の芝山に似ていたので芝山岩と名付けた。
芝山岩は分類械闘という18世紀中期から19世紀末にかけて清代の台湾で発生した族群間の武力衝突の舞台の一つで、漳泉械闘の舞台となった。
福建省の漳州人と泉州人は9世紀以來衝突を繰り返しており,八芝蘭地区の漳州人地区に泉州人が侵攻すると、漳州人たちは芝山岩を緊急避難所とし,1825年に芝山岩に四個の岩門を造成して防衛した。百二十崁は岩門の中でも重要であった南隘門が置かれていた場所であった。
なお、1787年台湾全土で反清運動を起こした林爽文は1773年に台湾へ移住した漳州人である。
芝山岩百二崁歩道。刻銘。
石段を登り、さらに参道を進むと涼亭があり、日本の歌謡曲が流れ、地元の老人たちが曲に合わせてダンスをしていた。
涼亭を過ぎると、石碑が並び、正面奥には旧神社社殿跡に建てられた雨農閲覧室がある。
芝山岩事件で殺害された六人の教員を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。
戦後、石碑は倒されたが、2001年に復元された。
台北市政府、2006(民国95)年6月謹誌。
抜粋。「遭難之碑の背面には抗日民を「土匪」と記している。1898年から2月1日を例祭日とした。台湾国語読本に芝山巌事件を記載し、芝山巌を台湾教育の発揚地・聖地とした。
芝山巌事件は日本の植民地統治に反抗した台湾人の正気を示したものである。」
1958年(民国47年)、士林鎮芝山公園興建委員会により建立された。事件を台湾人義民が起こした蜂起とする国民党政府の見解に沿った記述がある。
1895年(明治28年)5月17日下関条約により台湾が日本に割譲され、6月17日、台湾総督府の始政が挙行された。当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台湾総督府の学務部長として、その翌日に国語(日本語)学堂を設置したが、台湾人の入学者はなかった。
1895年7月下旬に台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて芝山巌学堂という日本語学校を設立した。
最初は生徒6人を集め、伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になった。
1895年10月28日、北白川能久親王が出征中の台南で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。
1895年の暮れにふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。
1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。
再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員を含む7人全員が惨殺された。
この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。
「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明(山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦と吉田松陰の妹・寿の次男)、関口長太郎(愛知県、37歳)、中島長吉(群馬県、25歳)、桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族)、井原順之助(山口県、23歳)、平井数馬(熊本県、17歳)。
1905年台湾の教職員は台湾教育会を結成した。そのころに、芝山岩に「台湾亡教育者招魂碑」、「故教育者姓名」碑、「伊澤修二先生記念碑」が建立された。
芝山巌神社。
1930年(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた。