「アメリカン・ゴシックAmerican Gothic」は、1930年にアメリカの画家グラント・ウッドが描いた油絵で、シカゴ美術館に展示されている。古風な家の前に三叉のピッチフォークを手にして立っている初老の男女の肖像が描かれている。
20世紀アメリカ美術を代表する有名な作品で、ダヴィンチのモナリザ、ムンクの叫びに匹敵する作品という評価もあるアメリカ人のアイコンである。しかし、日本ではそれほど知られているとは思えない。
私が知ったのは1993年ごろで、1992年に愛知芸術文化センターアートライブラリーができて、4回目のアメリカ旅行のために、「アメリカ美術の歴史」(エイブラハム・デオビッドソン著、桑原住雄・未知世訳、パルコ出版、1976年)を借りて通読したときで、紹介されている絵画数百点の中で最も印象に残った絵画がこの一枚だったのである。
干草用フォークを持っている農夫とその妻と思われる肖像画に、アメリカ人のピューリタン的精神の強さを感じた。これが感動した原因である。
心に残る絵画として覚え続けていて、ふと、その時の本はどうなっているのだろうかと、アートライブラリーを尋ねて捜したが、今はもうなかった。名古屋市図書館で借りてみると、私の記憶では判型が小さいソフトカバーの表紙絵だったはずが、ハードカバー本の挿入画になっていた。
1980年代には、ニューヨークのメトロポリタン美術館、MOMA、グッゲンハイム美術館、ホイットニー館やワシントンのナショナルギャラリーなどを見て回っていたのだが、アメリカ人画家で名作というものは少なかった。アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」やジョージア・オキーフの砂漠の頭蓋骨の絵が印象に残ったぐらいか。グランマ・モーゼスの日本での回顧展も印象に残っていた。ロサンゼルスに1週間ほど旅行する計画を立てていたので、アメリカの絵画史を通観してみたかったのだ。
グラント・ウッド(Grant Wood 1891~1942年)は1930年代のリージョナリズムを代表する一人で、初期は印象派風の平凡な作風だったが、1928年にミュンヘンでメムリンクなどの北欧ルネッサンス絵画の影響を受けて、精緻な写実様式に転向した。
アイオワ州ジョーンズ郡のクエーカーの農場主の家に生まれた。1901年に父親を亡くし、シーダーラピッズに移った。絵に才能と興味を示し、ミネアポリスの工芸学校、1913年からシカゴの美術学校の夜間コースで学ぶが卒業できなかった。第一次世界大戦後はシーダーラピッズに戻り、中学校の美術教師となった。
1920年代パリなどで学んだ。1933年に芸術家村Stone City Art Colonyを設立し、大不況下の芸術家のために貢献し、1934年からはアイオワ大学の美術学校で講師を務めた。
ウッドは1930年の夏、アイオワ州南部の田舎町エルドンで、中世的な急傾斜の屋根と教会風のアーチ形窓を持つカーペンターゴシック様式の住宅を見て、厚紙風の薄っぺらい住宅だと思ったが絵の対象にはなると興味をそそられてスケッチを描いた。さらに、ウッドは建物の住民にふさわしい人物を描き加えることにした。
モデルとなった女性はウッドの妹ナン(1899~1990年)で、男性はウッドの掛かりつけの歯科医バイロン・マッキービィ(1867~1950年)である。絵画中の二人は夫婦に見えるが、ウッド自身は父娘を描いたと、手紙に書いている。
地元の新聞はピューリタン的で厳格な風貌という批評で揶揄したが、ウッドはありのままのアイオワ人を描いただけだと反論した。
19世紀のコロニアル風の衣装を着させられ、2倍も違う老人と夫婦のように描かれた妹のナンは怒り、同じく憤慨したマッキービィは作品の完成後 10 年間にわたりウッドと口を利かなかったという。
この作品は、リージョナリズムに沿った画題で、当時のごく一般的な中西部農民の肖像画である。背景の建物は農民の素朴さと厳しさを描き出すために使われた。人物は、わざと、プリミティブ風に描かれているが、老人の顔に刻まれた皺のリアルさにはフランドル画家の研究に基づいた写実性がある。
発表直後から、ピューリタニズムの因襲・田舎の偏狭さへの風刺ととる見方があったが、大恐慌の進展とともにパイオニア精神を奮い立たせる絵画という評価が高まっていった。
近年は、ヨーロッパ各地で「アメリカン・ゴシック」の絵画展が開かれているので、日本で見る機会もあるかもしれない。
そういえば、1983年にルーブル美術館でジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵を見て感動し、数年後にもまた見にいったのだが、当時は無名だった。ラ・トゥールの展覧会が、日本で初めて開催されたのは2005年であった。
フランスではフランス人の、アメリカではアメリカ人の絵画を見たいものだ。