紅陶背壺。大汶口文化。BC4300~BC2500年。台北。国立歴史博物館。
2017年10月19日(木)。
高18 ㎝、口径12㎝、底径8㎝。
背壺とよばれる土器は、胴部の膨らみに非対称性があり、一面が扁平に作られ、担いで持ち運ぶのに便利に作られたと考えられている。
大汶口(だいぶんこう)文化は山東省を中心にBC4100年頃からBC2600年頃にかけて存在した新石器時代後期の文化。北辛文化(BC5300~BC4100年)が先行し、のちに龍山文化(BC3000~BC2000年)へ続く。
仰臥伸展葬を中心に成人男女合葬がみられ、また抜歯、頭骨の人工変形や墓にブタの頭骨の供献、手に獣牙を持ち腰部に亀甲を置く埋葬が注目されている。
大汶口文化は早期(BC4100~BC3500年)、中期(BC3500年~BC3000年)、後期(BC3000年~BC2600年)に分かれる。
早期には、階級差は大きくなく、母系氏族共同体だったと推測されている。この時期は鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)や紅陶でできた鼎(三本足の器)など多様な形をした陶器が特徴的である。
中期には、出土する陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大きさや文様・形の多様さが明確になる。また社会は父系氏族共同体へ移行した。
後期には、大型墓はたいてい木槨を使用し、大量の土器のほかに玉・トルコ石製品、精巧な彫刻のある象牙製品の副葬やブタの頭骨の供献などが特定の墓葬に限られ、社会階層に不平等が発生して、貧富の差が生じたことを示している。
土器は灰陶・黒陶が主流となり、轆轤の使用が始まって、土器製作における専業化がかなり進行していることをうかがわせる。器の厚さは薄く精巧になってゆき、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化につながってゆく。
灰陶撇口豆。大汶口文化。BC4300~BC2500年。
高足皿。高15㎝、口径12㎝、底径10.5㎝。随葬品。口が広がっている。
灰陶は還元炎で焼成された土器である。土器は酸化炎で焼いた場合、粘土中の鉄分が赤色の酸化第二鉄となり紅色系を呈するが、適度に通風を制御した還元炎で焼くと酸化が進まず、灰色系の土器すなわち広義の灰陶となる。還元炎焼成を可能にする窯(かま)の発達に伴い、紅色系から灰色系へと変化した。
灰陶は仰韶文化の廟底溝期に現れ,続く竜山文化期から殷・周時代にかけて盛行するようになった。胎土には泥質のものと砂質のものがあるが,概して粗質であり厚手で,表面に縄蓆文を有する場合が多い。
製法は巻き上げ法に拍打が加わったものが一般的であり,やがて轆轤も使用される。
器種としては鬲や鼎などの三足器が特徴的である。秦・漢時代になるとより精製されて,薄手で硬さも増してくる。
器種には基本的な実用器として,壺,鉢,高坏,甗などがある。文様には縄蓆文のほか,その擦消文,櫛描文,彩画文などが見られる。六朝時代から唐になると,灰陶は後退して釉陶や鉄製品などに代わっていった。
灰陶平口双耳豆。大汶口文化。BC4300~BC2500年。
高足皿。
陶高足杯。龍山文化。BC2900~BC2100年。
高22.7㎝。
龍山文化(BC3000~BC2000年頃)は、黄河中流域・下流域に広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。
龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は大汶口文化に続いて現れ、河南龍山文化は仰韶文化に続いて登場している。龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。
龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることから轆轤が使われていたと見られる。
黒陶には鼎(かなえ)、鬲(れき)、鬹(き)などの三足器があり、こののちずっと続く中国の陶器や青銅器の基本的な器形がこの時代にだいたい出そろう。このことは土器製作の専業化がかなり高度に進行していることを示している。
なかでも、卵殻黒陶は、器を卵の殻のようになるまで薄くした黒陶の陶器で、磨きをかけて黒光りさせるか精細な文様を彫り込んだものである。
龍山文化の後期には青銅器も出現し、殷代や殷の前にあったとされる夏代の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土している。
コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。
動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。
陶高足杯。龍山文化。BC2900~BC2100年。
陶高足杯は墓から出土すろのが普通で、葬送儀礼のさいに用いられ、副葬された。
きめの細かい粘土を使い、漆黒色で光沢がある。器を卵の殻のようになるまで薄くした黒陶は卵殻黒陶とよばれる。もろいため日常の使用には耐えられない。轆轤成形されたのち、回転させながら削り込んで作られたらしい。山東龍山文化で頂点に達し、つづく二里頭文化時代になると、山東でもこのような精巧な土器は造られなくなる。
台のついた脚部は空洞で、縦長の透かし窓が密に施されているものは、山東龍山文化でも古い段階のものである。脚部は太くなったり、長くなったり発達した。杯部分と脚部は別々に作られたのち接合しているが、脚部自体も部品を接合して作られたとみられる。
灰陶鬹。龍山文化。BC2900~BC2100年。
鬹(き)は大汶口時代から始まり、龍山時代に終わるもので、三本の足をもち、嘴のような注ぎ口をもつ。実心で棒状の足をもつタイプと空心の袋状の足をもつタイプがある。注口部はそそりたつように高く上に伸びている。
紅陶鬹。龍山文化。BC2900~BC2100年。
陶鬲。龍山文化。BC2900~BC2100年。
鬲(れき)は袋状の脚を有する三足器で、古代中国で広く使用され,甑 (そう) と組合せて穀類を蒸すのに用いられた。石器時代以降,戦国時代まで生活用具として使用された陶製のものが主であるが,殷・周時代には青銅製のものもある。