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台北 国立歴史博物館 5 土器 二里頭文化 商(殷) 西周

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荷風閣。台北。国立歴史博物館。
20171019日(木)。
3階の精選文物展の展示室北側に、荷風閣という休憩ラウンジが設けられている。
 
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荷風閣から眺める台北植物園のハス池。
 
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白陶輪泥大罐。二里頭文化。
BC2600年~BC1600年。
 
二里頭文化(BC2100年~BC1500年頃)は、黄河中流域から下流域を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化であり、河南竜山文化晩期から殷代早期にかけての河南省二里頭遺跡と王城崗遺跡などで、版築でつくられた城壁や宮殿が発見されている。龍山文化から発展し、殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。
社会史的には原始氏族制が崩れ、羅城(城壁都市)築造に示される階級社会への発展段階にあった。
 
二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、規模の大きな宮殿の基壇の存在から、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。
史書の夏の時期に相当するため、この遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。
中国の歴史は堯、舜、禹の三王に始まって、禹の時代から王位が世襲となり、禹から桀までの17代の王朝が夏であり、それを継いだのが殷である。
夏は初め黄河中流域の河南省西部方面を占拠し、しだいに陝西省東部、山西省南部から黄河下流域の河南省南部と東部、安徽省西部、山東省方面へと拡大していったとされる。
 
二里頭遺跡の住居跡から推測すると、人口2万人以上の当時としては世界有数の大規模集落が存在した。トルコ石で表現された龍、銅爵、宮殿区、龍の文様の入った玉璋が発掘されている。ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化、紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。
 
二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡がある。気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられ、衰退した他の中国の新石器時代の各文化とは違い、商(殷)と推定される二里岡文化へと繋がっていった。
生産用具は、なお竜山文化晩期から継続する石器や骨器が中心であるが、すでに青銅器も登場している。
 
陶器の形状は明らかに竜山文化に起源をもち、そのなかから発展したことを示している。
前期は河南竜山文化晩期に相当し,鼎,鬹(き),盤,三足盤,豆(とう),壺,盆などが出ている。後期には陶製の爵(しやく),盉(か),觚(こ),簋(き),大口尊などの器形が新たに出現する。
 
二里頭文化では罐や鼎が代表的な炊器であったが、殷時代になると衰退して鬲(れき)などが急増する。罐は、貯水や水汲みの容器としての用途もあった。
 
白陶はカオリンを多く含む白色の粘土を使った土器で、大汶口文化に流行したが、殷後期に副葬品の高級土器として盛んになった。
 
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紅陶鬲。二里頭文化。
BC2600年~BC1600年。
(れき)は太い中空の3本の足をもつ煮炊きの容器である。鬲の三足は、鼎のような単なる支脚ではなく、胴部と一体化した容器の一部をなすものであった。
鼎が黄河流域東部と長江中・下流域の伝統的土器であったのに対し、鬲は黄河流域西部・北部の伝統的な土器であった。
 
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紅陶袋足盉。二里頭文化~商(殷)。
BC2300BC1027年。
盉(か)は祭祀用の酒や酒に和す香草の煮汁を入れる水さし形の容器。
 
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紅陶鬲。商(殷)~西周。
BC1600BC771年。
 
殷・西周時代の土器・陶器は、工芸作品というよりも日常的な容器に変化した。青銅器や玉器に礼器としての役割を譲ったためと考えられる。また、殷代中期には灰釉陶器が出現した。

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