印紋陶釜。河南省洛陽出土。春秋時代。BC770~BC403年。晩期。
台北。国立歴史博物館。
2017年10月19日(木)。
春秋時代、洛陽は政治・文化の中心であった。墓の副葬品の基本は青銅器の鬲(れき)・盆・罐であったが、小形の墓の場合は類似した器形の土器で代用したと考えられる。
中国の東南沿岸地帯の土器の中で表面に印文の施された土器を印文陶とよぶ。長江流域以南の地帯では、新石器時代後期以降、漢代まで土器の表面に方格文・渦文・雷文などの各種印文が施され、表面が灰色系の罐・甕・壺などの土器が作られた。焼成温度の差による硬・軟から印文硬陶・印文軟陶とよばれる。
印文硬陶の起源を青銅器的な文様の存在によって中原の青銅器文化に求める考えもあるが、印文陶の文様と印文硬陶の文化的伝統の中心地から考慮すると、その起源は東南沿岸地帯に求めるべきであろう。
春秋時代・戦国時代(BC770~BC 221)の陶磁について。
春秋時代前期・中期の副葬陶器は礼制から外れた実用陶器を用いた例が多い。周王室の権威がまだ保たれており、青銅礼器を陶器で模倣することが許されていなかったと考えられる。
春秋時代後期から戦国時代になると、周王室の権威が衰え、青銅礼器を模した礼制陶器が作られて墓に副葬されるようになった。
春秋時代では、江蘇省、浙江省などの華南の遺跡からは大量の灰釉陶器が出土する一方で、華北からはこの時代の灰釉陶器の出土はほとんど知られていない。浙江省には春秋期の灰釉陶器を焼いた窯址が40か所ほど知られる。浙江省にある円墳からは27点の灰釉陶器が出土したが、青銅器は1点も出土しなかった。これらのことから、春秋期においては、華北で青銅器が製作される一方で、華南ではそれに代わるものとして灰釉陶器が製作されていたとみられる。
華南の灰釉陶器の中には同時代の青銅器を模したものが多い。江蘇省、浙江省などの江南地域は南朝から唐代の越州窯青磁を生産した土地であり、春秋戦国期の灰釉陶器が後の青磁の源流になったとみられる。
戦国時代にも華南では引き続き灰釉陶器が焼成された。器形は青銅器写しのものと、日常生活容器の両方がある。灰釉陶器は、戦国時代中期にピークを迎え、以後は停滞している。灰釉陶器の製作は一時期断絶したようで、BC3世紀頃の灰釉陶器の出土例はほとんどない。漢時代には再び灰釉陶器が作られるものの、技法や釉調は戦国時代のものよりむしろ後退していることが指摘されている。
戦国時代には灰釉陶器以外の技法のやきものも作られていた。華南で施釉陶が盛んに作られていた時期に、華北では灰陶に彩色を施した加彩灰陶が作られていた。灰陶は高火度の還元炎焼成で焼き締めた土器で、新石器時代から製作されているが、灰陶の器表に赤、白、黒などの顔料で絵画や文様を表した加彩灰陶は春秋時代以降にみられる。
新石器時代の彩文土器(彩陶)が焼成前に文様を描くのに対し、加彩灰陶は焼成後に加彩するものである。
獣面文瓦当。春秋戦国時代。BC770~BC221年。
瓦当とは軒丸瓦の先端に付けられた円形部のこと。中国における屋根瓦の出現は西周時代に始まり,当初は大棟,下り棟,屋根と屋根とが接する谷の部分などに限って使用された。春秋時代になると屋根の全面を丸瓦と平瓦とで葺き,軒先の丸瓦の先端を粘土板でふさぐ瓦当が出現する。戦国時代から漢代にかけては半円形のものがあり,これを半瓦当とよんでいる。
瓦当に施された文様には饕餮(とうてつ)文,蕨手文,四葉文,蓮華文,獣面文,重圏文などがある。
青釉大口尊。戦国時代BC403~BC221年。
尊はもともと青銅器の器種で、神に捧げる酒を入れる広口の容器。
この尊は口頚部が大きく朝顔形に開いている。
青釉提樑盉。戦国時代BC403~BC221年。
高17.5㎝、口径6㎝。
提樑は提げる把手がついたもの。
盉(か)はもともと青銅製の注酒器で、殷前期に現れ、春秋時代以降も製作された。筒状の注口と把手を有し、3本ないし4本の足がつく。蓋を伴うものが多い。欝金草の煮汁を作り、酒と調合するための器と推定される。
釉と胎土の結合が不完全で釉は剥落し、灰黄色を呈す。青銅器の盉を模倣したもので、提梁は獣状に装飾されている。底には三つの獣の足が付く。器身は三条の弦紋で装飾されている。
灰陶加彩鴨形器。戦国時代。BC403~BC221年。
高20㎝、42cm。
副葬品の明器である。鴨には丸い蓋がつく。鴨の体は紅色と白色の帯状の絃紋と密集した白色の小円点で装飾されている。羽根には幾何的な色の塊がある。野鴨は飛び立とうとしており,靜中有動の趣を表現している。1993年に購入した。
青釉獣耳蓋罐。戦国時代BC403~BC221年。
高36㎝、口径19.5㎝、底径22㎝。
灰陶繭形壺。戦国時代BC403~BC221年。
高22㎝、周囲69.5㎝、口径10㎝、底径8㎝。