台北。国立歴史博物館。
2017年10月19日(木)。
漢代には中国陶磁史上初めて、本格的な青磁が登場したほか、灰釉陶器、加彩灰陶、黒陶、鉛釉陶器などが作られた。殷周から春秋戦国にかけて、青銅器文化が栄える一方で、陶磁器の発展はゆるやかであったが、漢代に至って、青磁の焼造という大きな技術的進歩があり、技法も形態も多様な陶磁器が作られるようになった。
漢代の灰釉陶器は戦国時代のものに比べて技術的にはむしろ後退していることが指摘されている。漢代の灰釉陶器の典型的な作品は、壺などの上半部のみに釉が掛かり、下半分は赤黒く焼き締まった胎土が露出するもので、この種の作品はおおむね前漢時代後半から後漢時代前半の作とみられる。
漢代において陶磁史上特記すべきことは、この時代に本格的な青磁の焼造が始まったことである。中国における施釉陶(中国でいう原始磁器)の焼造は殷代のBC1500年頃に始まったが、青磁と称するにふさわしいやきものが登場するのは後漢時代、2世紀のことである。
初期の青磁を焼いた窯は浙江省上虞窯、寧波窯などで見出されている。この時代の青磁器は、よく溶けた灰緑色の釉が器全面に掛かったもので、胎土、釉、焼成温度などの点で前漢までの灰釉陶器とは一線を画している。
青磁とは、釉の成分の灰に少量含まれる鉄分が還元炎焼成によって青く発色したもので、青磁釉は成分の点では灰釉と根本的な違いはないが、焼成技術と窯構造の進歩にともない、焼成温度の調節管理が適切に行われるようになって、青系のやきものが作られるようになった。
灰釉と並んで中国陶磁の基礎釉となっているのが鉛釉である。鉛釉陶器は700〜800度前後の低火度焼成によるやきもので、呈色剤に酸化銅を用いると緑、酸化鉄を用いると褐色ないし黄色に発色し、それぞれ緑釉、褐釉となる。後の唐三彩も鉛釉陶器である。鉛釉陶器が本格的に製作されるようになるのは漢代からである。緑釉陶、褐釉陶は実用の器ではなく明器(墳墓への副葬品)として作られたもので、壺、鼎、酒尊などの容器のほか、犬や虎などの動物を表したもの、さらには楼閣、家屋、井戸、竈などを表したものもあり、当時の人々が来世でも現世と同様の生活を願っていたことがうかがえる。
明器としては、前代に引き続き加彩灰陶も作られた。雲気文を彩画した壺類が代表的な作品だが、墳墓副葬品としての人物像(俑)も加彩灰陶で製作された。
高39㎝、口径19㎝、底径12.5㎝。
雲気文は、戦国・漢時代にみられる文様で、空中に充満する気を表すC字形と弧線の連続した図案をいう。雲気とは雲の気配、雲霧の移動のありさまのこと。古代中国では名君や竜が現れると雲気がただよい、めでたいことがおこると瑞雲(めでたい雲気)が四方にたなびくと考えられていた。漢時代の壁画や画像石に多く出てくる蕨手形の曲線は、こういった雲気を表す文様である。
高23㎝、口径11㎝、底径16㎝。
蓋の頂に珠宝型の鈕がある。双耳には人面文があり独特の造形をなす。肩部には弦紋、流動水波文の装飾がある。
口径16㎝、厚2㎝。
瓦当とは屋根の軒に葺いてある軒丸瓦の面のことである。
漢代では神仙思想に傾倒した皇帝が高い楼閣や宮殿を造営し、屋根に雲文瓦当を並べて神仙の招来を願ったという。
また、文字瓦当も盛行した。書体はほとんどが篆書で、漢代の通行書体は隷書であったが、貴族や知識人は篆書を正式のものと考えていた。
語句としては、未央、長楽、上林、甘泉等の宮殿名や司空、都司、衛、関等の官庁名のものも多い。また幸せや長寿や繁栄を願った吉祥語句も多い。延年益寿、千秋万歳、長生無極等が多いが、永寿嘉福のように烏虫体のような珍しいものもあり、瓦面のなかを創意工夫を凝らし様々に変化の妙をつくしている。
これらの文字瓦当は権力者の要請で優れた工人達によって芸術的に作られ、当時は絢嫡豪華に輝いていたと想像される。
「長楽未央」は漢代に建築された「長楽宮」と「未央宮」に共通して用いられた瓦当といわれ、吉祥文字瓦当瓦の典型といわれる。「長楽は未だ央(つ)きず」と読み、長い楽しみはこれからであるという意味とされる。
口径17㎝、厚3.5㎝。
高11.5cm 幅27cm 厚2cm。
この人面瓦当は,陶胎は灰色,堅実に焼成され、男子の面貌をしている。正中に大鼻があり、口は小さい。
高16.5㎝、幅18㎝、口径12.5㎝、底径6.5㎝。
春秋・戦国時代から漢時代にかけて、青銅器を模倣した土器が盛んに作られた。灰色に硬く焼きあがった灰陶壺の身部に銅片を象嵌している。
盒(合子):長37㎝、幅18㎝、高7.5㎝。
耳杯:長10.3㎝、幅8.7~12㎝、高3.5~4.5㎝。
酒器で盒(合子)と耳杯が一組になったものだが、盒の蓋部は亡失している。