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「歴史の里しだみ古墳群」と「体感!しだみ古墳群ミュージアム」 その6 ヤマト政権と白鳥塚古墳

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白鳥塚古墳。東南側入口。

「体感!しだみ古墳群ミュージアム」開館記念行事として、2019414日(日)に「第1回しだみゅーシンポジウム 志段味大塚古墳の鈴が鳴る」、421日(日)にしだみゅー歴史講演会の「志段味大塚古墳の主を視る」シリーズの第1回講演会「鈴鏡から文化を視るが開催され、両日とも聴講にでかけ、あわせて志段味古墳群の整備状況を視察した。
白鳥塚古墳は414日に見るつもりだったが、講演後は雨が降ったので21日に回して、21日の講演会後に、白鳥塚古墳を見学した。
 
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白鳥塚古墳。現地説明板。
国史跡・白鳥塚古墳。概要。
前方後円墳(墳長約115m・後円部径約75m・前方部長約43m)。
築造時期:4世紀前半。
葺石:あり(角礫と円礫)。
周濠:あり。
出土遺物:土師器・須恵器(築造後6世紀後半のもの)
愛知県下第3位の規模を誇り、県内で最初に造られた大型前方後円墳である。墳丘の形は、後円部に比べて前方部が細くかつ短いのが特徴で、大王墓の奈良県柳本・行燈山(あんどんやま)古墳に似ている。後円部頂部に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英がまかれ、墳丘が飾られていた。石英で白く輝いていた外観が、白鳥塚の名称の由来となったといわれている。
 
白鳥塚古墳の被葬者は、庄内川流域および現在の名古屋市域を中心とする尾張南部全体の王墓で、尾張南部の古墳時代史の出発点を象徴する王であったといえる。
東谷山の3古墳(尾張戸古墳・中社古墳・南社古墳)が在地の人々の首長墓とすれば、白鳥塚古墳の被葬者は、強力な影響力をもった、外部に出自をもつ人々の首長で、尾張に広域支配体制を作るために、志段味の人々を結合したと考えることがえきる。
 
尾張南部の前期古墳が、名古屋台地ではなく、まず最初に庄内川沿岸や海浜部の地域に現れたことは古墳時代前期の尾張南部に水上の活動で連携するネットワークが形成されたと推定できる。
それを背景として、東国へ進出しようとするヤマト王権とのつながりをもち、象徴的な前方後円墳を築いたと考えられる。
 
しだみ古墳群ミュージアムから車で北東へ5分ほど。ミュージアム前の道路から北東へそのまま行けそうだが、整備中らしく幹線道へ迂回してフルーツパーク方向へ向かうと左側道路沿いに5台ほどの簡易トイレ付き駐車スペースが整備されている。中程2台分がデッドスペースになって駐車できないのが意味不明。また、古墳へは道路を渡る必要があるが、横断歩道はない。白鳥塚古墳の東南側に広い空地があるので、駐車場になるのかと思っていたが、イベントスペースとして考えているのか、現状はベンチが置いてあり、グループで飲食している人たちがいた。
道路側には鉄柵が続き、入口には鉄柱が立っている。違法駐車と車の進入を防ぐためなのだろう。
現実問題として、写真撮影において鉄柵は邪魔な存在である。愛知県立大学看護学部の校舎のほうがより邪魔なので、この程度は仕方ないか。
 
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白鳥塚古墳。墳丘案内図。現地説明板。
 
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白鳥塚古墳。現地説明板。
渡り土手と復元葺石は見なかったので、次回に見学したい。
 
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白鳥塚古墳。後円部墳頂への階段。左側前方部との接合部を横断する歩道。
20183月発行のリーフによれば、すでに階段と墳頂の石英が整備されている。
 
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白鳥塚古墳。古墳右側(東南側)の南西から。
全景を撮影することはできない。県大看護学部校舎の屋上からなら可能かもしれない。
 
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古墳を白く飾った石英。ミュージアムの常設展示から。
現地に復元想像図を置くと市の学芸員は言っていたが、ない。
これだけ分かっているなら、復元できるはずだ。
 
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白鳥塚古墳。後円部墳頂。
 
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白鳥塚古墳。墳頂。復元された石英。
 
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白鳥塚古墳。墳頂。復元された石英。
 
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石英。ミュージアムの展示。
白鳥塚古墳、尾張戸古墳、中社古墳出土。
 
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白鳥塚古墳。説明板。名前の由来。
 
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白鳥塚古墳。説明板。埋葬施設。
未調査だが、二つの埋葬施設の存在が推定されている。
 
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白鳥塚古墳。墳頂から北西の庄内川方向。
 
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白鳥塚古墳。墳頂から前方部方向。
 
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奈良県柳本・行燈山古墳(伝・崇神天皇陵)との比較図。
行燈山古墳は4世紀前半頃の築造で、墳丘長242m
「天皇陵古墳を考える」白石太一郎編著、学生社、2012。 
読書メモを引用すると、ヤマト政権の大王墓12基のうち、3世紀中葉過ぎから4世紀中頃までの変遷;箸墓古墳(桜井市)→西殿塚古墳・現手白香皇女衾田陵(天理市)→外山茶臼山古墳(桜井市)→メスリ山古墳(桜井市)→行燈山古墳・現崇神陵(天理市)→渋谷向山古墳・現景行陵(天理市)では、第5代の大王墓で4世紀前半となる。
実在したかどうか不明だが、崇神・垂仁・景行天皇(ヤマトタケルの父)と続くうち垂仁天皇が4世紀前半のあたりになる。
 
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玉手山
7号墳との比較図。
大阪府柏原市の玉手山7号墳も行燈山古墳と同型で、墳長110m
玉手山7号墳の見学メモ。
玉手山7号墳は、奈良盆地南西から河内平野へ流れる大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵の最高所にあり、古墳群最大規模の古墳で、古墳群の中でも新しい時期(4世紀中頃)に属し、尾張侯墓地古墳ともよばれる。前方部には尾張徳川家第2代藩主・徳川光友らの墓がある。
玉手山丘陵の北東末端台地の片山村一帯は白鳳時代には安宿(やすかべ)郡尾張郷と呼ばれ、尾張連の本拠地だった場所である。
 
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玉手山古墳群と行燈山古墳などの古墳変遷図。
玉手山古墳群を築造した集団は中河内の平野部から南河内にかけての地域を治めた集団で、中河内から南河内一帯を治めた首長が被葬者像として浮かび、大和川の水運を掌握していたとみられる。
玉手山古墳群を築いた集団は、大和の政権と対立するような集団ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと考えられる。
大和盆地東南部の大王陵は、古墳時代前期後半に盆地北部の佐紀古墳群へと移り、政権の中心となる勢力が取って代わったと考えられる。この時期に玉手山古墳群の造営が終了するので、淀川水運を重視する新しい政権の誕生により、玉手山古墳群を造営していた集団は大打撃を被った、もしくは解体されたとみられる。
 
のちに尾張氏といわれた氏族集団は、海神族のなかでも、海洋ではなく河川の水上交通に長けた氏族で、紀ノ川上流にいたころ高倉下命と伝承される人物が天孫族(伝・神武天皇)の東征に協力し、初期ヤマト政権時には葛城地方に本拠を置いて后妃を出すなど大王家に仕えた集団のほか、徐々に濃尾・伊勢湾河口域に進出し、各地に点在して定住した支族集団が多数あったとみられる。
古墳時代の前期は、庄内川流域の尾張氏集団がヤマト政権から優遇されたが、5世紀頃から名古屋台地方面の尾張氏族に本拠が移動し、継体天皇期のころには熱田台地を拠点にする尾張氏族が優勢になったと推定される。
 
白鳥塚古墳の被葬者は、尾張国造オトヨ(乎止与命)に相当する人物と推定する。オトヨの子・建稲種命がヤマトタケル(日本武尊、景行天皇の皇子)の東征に副将軍として随伴し軍功を上げたており、尾張戸古墳か中社古墳の被葬者ではないだろうか。
 
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盾形埴輪。南社古墳出土。
盾形埴輪は、畿内の大王墓など前期古墳と類似性が高い。
南社古墳は円墳(径約30m)で、4世紀中頃の築造とされる。
埴輪は白鳥塚古墳・尾張戸古墳には使用されなかったが、中社古墳とともに初めて使用された。
 
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古墳時代前期における伊勢湾沿岸への埴輪の波及。勢力の交代を示す。
志段味古墳群では、中社古墳・南社古墳の築造後、50年以上も古墳の造営が停止する。
一方、それと代わるように伊勢湾西岸地域には、伊賀の石山古墳、大垣の昼飯大塚古墳、犬山の青塚古墳など大型の前方後円墳が次々と造築された。これらの古墳からは鰭付き円筒埴輪など中社古墳・南社古墳とは異なる新しいタイプの埴輪が置かれた。
この新しい埴輪が、大和盆地北部の勢力によって創出されたとするならば、伊勢湾西岸の新興勢力は大和盆地北部勢力と手を結ぶことにより台頭したものと理解できる。
それは、同時に、大和盆地東南勢力と関係の深い前期志段味古墳群の勢力を衰退に導いた要因となったことが想像される。
 
「尾張氏 志段味古墳群をときあかす」(名古屋市博物館、2012年)、「古代氏族の研究12 尾張氏」(宝賀寿男、2018年)を引用・参考とした。
「尾張氏・尾張国造と尾張地域の豪族」(加藤謙吉、2013年、「国造制の研究」所載)および「古代尾張氏とヤマト政権」(野原敏雄、2017年)には志段味古墳群への言及はない。
 
白鳥塚古墳が尾張の古墳史を象徴する古墳であれば、私の旧来からの持論のように、志段味大塚古墳を復元しても意味はない。
埋葬施設などを調査したのち、白く輝く白鳥塚古墳を復元してはじめて、志段味古墳群が輝くのである。

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