猪形埴輪。小幡長塚古墳出土。
「体感!しだみ古墳群ミュージアム」。2019年4月14日(日)見学
志段味古墳群の変遷をみると、5世紀中頃から6世紀初めの帆立貝式古墳の首長墓造営は、6世紀前半の勝手塚古墳の築造を最後に活動を終えている。
これと入れ替わるように、それまでは大規模古墳がなかった熱田台地に愛知県最大の前方後円墳である断夫山古墳が6世紀前半頃に出現した。墳丘長は約150mで同時代では継体大王墓・今城塚古墳の墳丘長190mに次ぐ全国第2位の規模である。
被葬者を継体天皇の正妃・目子媛の父尾張連草香とする説が有力である。
この首長墓の系譜は大須二子山古墳(6世紀前半、墳長約130m)、白鳥古墳(6世紀中頃、墳長約70m)の3代にわたっている。
この古墳群の副葬品は志段味古墳群のものを引き継いでいることから、対立勢力ではなく、熱田台地の地域集団と志段味古墳群を造営した地域集団が共同して、熱田台地に尾張・美濃の広域的統治の拠点を置き、ヤマト王権の東国経営を支えたと考えられる。
5世紀末から6世紀前半にかけ、尾張南部では守山小幡台地と春日井味美地域で中規模の前方後円墳の造営が盛んになった。
断夫山古墳のある熱田台地の王墓が濃尾の王墓であるとすれば、階層的には次のランクの地域首長墓と位置づけされる。
守山小幡古墳群では、池下古墳(5世紀末~6世紀初め、墳長約40m)、小幡長塚古墳(6世紀前半、墳長約81m)、守山瓢箪山古墳(6世紀中頃、墳長約63m)、小幡茶臼山古墳(6世紀後半、墳長約63m)の前方後円墳が矢田川北岸に築造された。
小幡の語源は小治田とされ、旧山田郡に属す。続日本紀には神護景雲2(768)年に山田郡郡司として尾張氏一族の小治田連薬の名がみえる。
馬形埴輪。小幡長塚古墳出土。
飾り馬の姿を表わし、目が表現されていない。
小幡長塚古墳は6世紀前半の前方後円墳で、墳丘長は約81m。楯形の二重周濠を含めた全長は約140m。北東250mほどの丘陵南端に小幡茶臼山古墳がある。
1950年代・60年代はハゲ山とよばれた子供の遊び場で、陸軍の陣地壕も残っていた。
水鳥形埴輪。小幡長塚古墳出土。
くちばしが平たく、頭が長い特徴からカモ科の水鳥と推定される。
武人埴輪。小幡長塚古墳出土。
人物埴輪。小幡長塚古墳出土。
力士か馬を曳く人物のものと推定される。
耳鐶。ガラス小玉。小幡茶臼山古墳出土。
左の耳鐶は金製、右は銀製。
小幡茶臼山古墳は墳長約63mの前方後円墳で、6世紀後半の築造とされる。守山小幡台地の首長墓で、尾張最後の前方後円墳である。
土師器、須恵器、武具、馬具、装身具が出土した。尾張型埴輪は使用されていない。
左片袖式横穴式石室は濃尾地方では例がなく、京都府南部から大阪府北部にかけての淀川右岸地域と近似しており、淀川流域との結び付きを示唆している。
家形埴輪。東古渡町遺跡出土。
熱田台地の大首長墓の周囲には5世紀後半から6世紀前半にかけて墳長8mから20mほどの小方墳群が約数百基築かれた。階層は低いながら新しい文物を入手でき、生産や交易・流通で大首長に仕えた集団の墓域と推定される。
東古渡町遺跡や高蔵遺跡は熱田台地の墓域群のなかでも墳長15mから20mの比較的大きな古墳が多い遺跡である。
耳鐶。金銅製。高蔵遺跡出土。
蓋(きぬがさ)形埴輪。
円筒埴輪。名古屋城三の丸遺跡出土。
名古屋城三の丸遺跡の小古墳群では2基の小円墳と1基の小方墳が発見され、5世紀半ばから後半の初期須恵器や初期の尾張系埴輪が出土した。
円筒埴輪。長久寺遺跡(名古屋市東区白壁)出土。
円筒埴輪の製作過程。
円筒埴輪の製作過程。
円筒埴輪の製作過程。
円筒埴輪の製作過程。道具。
円筒埴輪の製作過程。乾燥、倒立など。
円筒埴輪の製作過程。埴輪の切り離し。
円筒埴輪の製作過程。切り離し、指ずれ、倒立など。
円筒埴輪の製作過程。野焼き。
円筒埴輪の製作過程。窯焼成。
円筒埴輪を触って比較。野焼きと窯焼成。