東谷山白鳥古墳(白鳥1号墳)。国史跡。2017年6月見学時。
東谷山白鳥古墳は、6世紀末~7世紀初めの円墳(径約17m)で、周溝がある。横穴式石室から馬具・大刀・刀子・鉄鏃・土師器・須恵器が出土した。
「体感!しだみ古墳群ミュージアム」。2019年4月14日(日)見学。
群集墳の時期。
白鳥塚古墳の被葬者は王とよべるが、この時代に王とよべるのは大和政権の王しかいないのではないだろうか。
6世紀中頃~8世紀前半。
群集墳の時代。東谷山古墳群・白鳥古墳群など横穴式石室を埋葬施設とする群集墳が造営された。
最初の王墓である白鳥塚古墳を集団の「始祖墓」に位置付け、それを核として群集墳を造営した。東谷山古墳群は尾張最大規模の群集墳である。
屯倉の経営を委任されていた尾張連は庄内川中流域の各所に広がっていた間敷屯倉にともなう田地の開発や耕作などに従事していた複数の集団に対して、ミヤケ関係集団の一体性を保持させるために、共同墓地を上志段味に設定したと考える
近畿地方の渡来系集団が始めた石室の奥壁隅に土師器を据える儀礼行為が3基で認められることから、渡来系集団との関わりが指摘される。飛鳥戸・春日戸など戸を名乗る氏族のほとんどが渡来系氏族であることから尾張戸(おわりべ)も渡来系氏族で、尾張戸神社は尾張氏ではなく尾張戸の氏神であった可能性がある。
一方、倭人系氏族は群集墳を構成することなく、各集落の背後に小規模の数基からなる古墳群を営んだとされ、志段味の西に位置する吉根の東禅寺古墳群や笹ヶ根古墳群は倭人系の墓域であったと考えられる。
群集墳を築いた集団が6世紀後半に白鳥塚古墳を追葬したさいの祭祀用品と考えられる。
東谷山白鳥古墳の横穴式石室は、志段味古墳群の群集墳のなかで唯一、ほぼ完全な状態で残っている。
石室の平面形は、石室の幅が奥から入口に向かって徐々に狭まっていくもので、床面に並べた人頭大の石の石列で、被葬者を納める玄室と、通路の羨道を区分している。
白鳥4号墳は7世紀前半の円墳である。
白鳥4号墳には土師器の甕を石室奥壁隅に置いておこなった特殊な葬祭儀礼の痕跡が残っていた。
塚本古墳は白鳥塚古墳の北西約350mに位置する7世紀前半の古墳。横穴式石室が発見された。
笹ケ根古墳群は志段味の西に位置する吉根にあり、1・3号墳は5世紀の円墳だが、4号墳は6世紀後半の横穴式石室墳で、倭人系の墓域となったと考えられる。