Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

読書メモ 「古代氏族の研究12 尾張氏」」(宝賀寿男、2018年)

$
0
0
「古代氏族の研究12 尾張氏 后妃輩出の伝承をもつ東海の雄族」(宝賀寿男、2018年)
 
宝賀寿男氏の古代氏族・武家系譜の考察は、十数年前からネットでたびたび読んでいる。

まず、宝賀寿男氏の古代氏族系譜観の骨幹をなすと思われる「古代氏族の研究(13天皇氏族天孫族の来た道」(宝賀寿男、2018年)は未読なので、足立倫行氏の書評から引用する。
 
天皇家の父系源流は殷王朝の流れを汲むツングース系で、鳥トーテミズム・太陽神信仰・鍛冶技術などを持ち、平壌あたりの箕子(きし)朝鮮、半島南部の洛東江流域を経て、紀元1世紀前半頃に九州北部に渡来した。
始祖・五十猛(いたける)神(スサノヲに相当)以降の動向。
松浦半島から筑後川中流域の御井(みい)郡(福岡県久留米市)に移り、そこが高天原(邪馬台国の前身)。4代目のニニギは筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島市)に移り支分国を作った(天孫降臨)。
伊都国(糸島市)には、日の出の方角に日向(ひなた)峠や日向山があり、記紀でいう天孫降臨(北東アジアでは始祖の地域移遷を指す)の地「日向」の地である。
その孫・神武は庶子だったので、2世紀後半に新天地を求めて小部隊と大和へ向かった(神武東征)。
 
ヤマト民族の基盤は3層の集団である。倭地に最初に定着した犬狼トーテム種族(山祇=やまづみ族)。次に稲作・青銅器を伴った竜蛇トーテム種族(海神族)。最後に鉄器を持ち太陽神祭祀の鳥トーテム種族(天孫族=天皇家一族)。
伊都国が天孫族なら、「国譲り」した葦原中(あしはらなかつ)国(筑前那珂郡)は隣接の奴国になるが、奴国王は後漢から金印を授与され、印鈕は蛇(竜蛇トーテム)だった。
 
奈良盆地には、神武の前に同じ天孫族のニギハヤヒがすでにいた。しかも神武は緒戦で破れ、兄(五瀬命)を亡くし、ニギハヤヒが敵将長髄(ながすね)彦を裏切った末の薄氷の勝利(八咫烏・金鵄は天孫族の鳥トーテム)だった。(引用以上)
神武の行軍は紀ノ川を遡上し、大和宇陀郡に至るルートで現在の紀伊半島南端・熊野は通らなかった。
 
P227 まとめ
奈良盆地には、北九州の筑前海岸部から出雲を経て、2世紀前半頃に三輪山西麓に移遷してきた海神族の三輪族がおり、それにやや遅れて故地・筑前から瀬戸内経由で摂津・紀伊の大阪湾沿岸部あたりに到来したのが同種族系の阿曇族の一派で、尾張氏はこれに属した。
 
阿曇・尾張氏系の居住地は、当初は畿内の大阪湾沿岸部にあり、もとは三輪族と同源で大己貴神を共通の祖とし、故地が博多湾沿岸にあった。この種族は韓地南部から日本列島に渡来して稲作・青銅器などの弥生文明を持ち込んだ。
その遠い源流は中国大陸の山東から江南にあった越種族である。渡来時期は古く、BC43世紀以降とみられる。
 
大和の三輪族中心の原始的国家では、銅鐸文化という特異な祭祀を有したが、2世紀後半の神武侵攻により崩壊した。原三輪国家構成員の支族余流が畿内から各地に転退したあとでも、銅鐸祭祀は残り、分布の主要な流れは三河・遠江を経て諏訪に至り、もう一つの流れは阿波から土佐に至った。
 
紀ノ川上流熊野に住み、尾張氏の祖である高倉下は神武創業に重要な役割を果たしたが、神武系統の初期王権が三輪山麓の磯城県主族(三輪族)としきりに通婚したなか、尾張氏や倭国造族でも同じ海神族の主要同族として初期王統との通婚があった。
高倉下とその子孫は大和葛城の高尾張邑に定住していた。
 
初期大王家は、崇神天皇のころから奈良盆地東南部に王宮をおいて各地に勢力を伸ばし始め、尾張氏の一族もこれに呼応した活動をとり、次第に東国の美濃・尾張へ移遷をはじめたが、そのうち尾張の一派がこの氏族の本宗的な存在になった。
尾張氏族では、景行・成務朝ごろから大王・王族に近侍して王権に奉仕し、ヤマトタケル遠征にも一族が随行して、一部は吉備までついていった。
尾張氏は仁徳天皇の外戚関係者ともなり、地方豪族ながら朝廷にも出仕し、継体天皇の登場にあたって支持勢力の一つとして活動した。
 
三種の神器の一つである草薙の剣を神体とする熱田神宮の祭祀を長く続けて、奈良時代以降は宮司職を世襲し、平安後期以降は有力祀官家として続き近代にいたった。
また、畿内以東の中世水軍勢力のほとんどを主導したのが、尾張氏の後裔諸氏かその関係氏族であった。
 
尾張氏の祖神については、天孫系で火明命とするが、系譜仮冒があり、実態は海神族系で、物部氏とも男系ではつながらない。尾張氏の別姓は海部氏で、後裔まで海神性が強い。
「姓氏録」掲載の多数の同族諸氏について、「擬制的同族関係」だと簡単に断定するのは問題が大きく、丹波国造・度会神主などをのぞき実際に同族としてよい。
 
「天孫本紀」の系譜はいくつもの断片をつないだもので、尾張の現地で活動した一族としては、景行朝頃に登場するオトヨ(乎止与命)以降になろう。
オトヨの父祖は、葛城にあって笛吹連と近い同族とみられ、建手折命の流れで小縫命の後とするのが妥当とみられる。
 
藤原京や平城宮跡から出土する木簡には、同族は尾治、五百木部、多治比部という古い表記で記されている。
 
各論。
犬山の東之宮古墳(実は4世紀中葉か)の被葬者は尾張氏の建稲種(オトヨの子で宮簀媛の兄)の可能性がある。垂仁・景行朝に盛行した前方後方墳という形式から。地元の古族丹羽氏は天皇家と関係が薄い。
志段味白鳥塚古墳の被葬者は垂仁・成務期に活動した初代尾張国造のオトヨ(乎止与)であろう。
 
5世紀の味鋺古墳群(名古屋市北区・庄内川北岸)や味美(春日井市)古墳群は、物部氏との関係が考えられる。
6世紀前半、東海地方最大規模の断夫山古墳(名古屋市熱田区)は、被葬者を尾張連草香とする説が有力だが、娘で継体天皇妃の目子媛と考える。草香は尾張氏支族の出であり、同型墓である今城塚古墳の築造より遡る世代である。
県下第2位の規模である青塚古墳(犬山市)は、丹羽県主一族の墓、車塚古墳(一宮市)は鴨氏同族の中島県主一族の墓であろう。
 
尾張での変遷について。
新井喜久夫氏の尾張氏尾張南部故地説がある。尾張氏の起源地を瑞穂台地とみて、本拠を名古屋の南部地域、熱田・瑞穂・笠寺台地から大高(氷上邑)にかけての地域とする説だが、志段味古墳群の築造勢力を無視する点に大きな問題がある。
赤塚次郎氏は味美古墳群の築造に関わった集団が、熱田に進出して断夫山古墳の築造に関わったとする。
志段味古墳群・味美古墳群のある庄内川流域が初期の尾張氏の居住地で、5世紀末に熱田を本拠としたと推定する。
 
オトヨを娘婿とした尾張大印岐一族は尾張地方最初の開発者で、大和葛城山東麓から山城を経て東国方面に展開した鴨県主の同族と推測する。美濃西部に入った三野前国造一族や尾張中島郡の古族中島県主も同族である。
 
尾張氏族・鴨氏族以外の上古尾張の主要氏族。多氏族は皇別で成務期に派遣された仲臣子上を祖とする。この一族は丹羽県主、島田臣、船木臣など。和珥氏族は海神族で、葉栗臣、知多臣、春日部、和邇部民など。鴨氏族。
この3氏族に遅れて、息長氏族の稲木乃別の一族、尾張氏族、物部氏族(三野後国造一族)が尾張に来住した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles