「尾張氏・尾張国造と尾張地域の豪族」(加藤謙吉、2013年、「国造制の研究」所載)
尾張東部の味美古墳群を造営した春部郡の首長グループが、6世紀に入って尾張南部愛智郡の熱田台地南西端に勢力を拡大し断夫山古墳を築造したこと、国造制の成立にともない、この盟主的グループの首長が尾張国造となり、尾張各地の首長たちと広域的な連合関係を形成し、尾張氏の擬制的な同族関係を作り上げたと推測する。
新井喜久夫氏の説では、乎止与(オトヨ)命・建稲種命の2世代が初めて尾張の有力在地首長と婚姻して結びついたとし、それ以前の火明命以下の系譜はのちに架上されたものとする。
尾張氏とその同族の分布を文献記録から検討する。尾張連・宿禰は中島郡、海部郡、春部郡、愛智郡に郡司クラスの大領などとして見え、海部郡には甚目連、山田郡には小治田連が見える。
尾張氏とは一系的な氏族集団ではなく、尾張国の各地を拠点としたさまざまな系統の在地集団が連合して、対外的に「尾張」をウジ名とする同族集団を形成していたのではないか。
尾張氏の本質は、国内各地に拠った在地集団の結集による大規模な擬制的同族集団と推断することができそうである。
しかしその場合も同族団を指揮・統率する有力な中核的グループが存在し、そのグループの中から尾張国造に任ぜられたり、畿内に進出し中央豪族化するものが出現したと見るべきであろう。
この中核的グループに比定すべき勢力は①5世紀から6世紀にかけて庄内川中流域(現春日井市)に二子山古墳(長95m)など味美古墳群を造営した春部郡のグループ②瑞穂台地に八幡山古墳(直径85m)などを築造した愛智郡のグループ③熱田台地に断夫山古墳(長150m)などを造営した愛智郡のグループがある。
6世紀前半に断夫山古墳を出現せしめた③のグループが当時の中核的勢力であったことは明らかだが、熱田台地には断夫山古墳に先行する大型古墳は存在せず、③のグループがどこから移住したのかが問題となる。
新井は②の瑞穂台地のグループが5世紀末に熱田台地へ移ったとして、さらにそのルーツを東海市名和の兜山古墳の被葬者とする。
熱田神宮縁起(890年成立)は稲種公が氷上邑が発祥の地と語ったとする。現在、名古屋市緑区大高町にミヤズヒメを祭神とする氷上姉子神社が存在し、愛智郡成海郷に含まれる。氷上姉子神社と兜山古墳は至近距離にあり、尾張国造家の故地は年魚市潟から瑞穂台地にかけての一帯に求めるのが妥当と思われる。
新井は、兜山古墳が出現する4世紀末頃、大和の政治的な影響力が尾張南部に及び、尾張氏がこの時期以降、海の民を支配する豪族として大和政権の従属化に入り、伊勢湾沿岸の塩や魚介類を贄として貢進するようになったとする。
赤塚次郎は、①の春日井市の首長グループに比定し、6世紀前半までは味美古墳群が勢力的に優位な立場になったとし、熱田台地における断夫山古墳の出現を、味美集団の歴史的な墓域の移動、目的的な場の設定にあったとみる。味美二子山古墳の墳形は断夫山古墳、今城塚古墳と類似する。
味美の首長グループのすべてが熱田台地に移ったわけではなく、移住した主力集団に対して、味美に継続して拠点を構えるグループも存したであろう。
ただし、熱田神宮縁起で尾張氏の発祥地を氷上邑と語ったことは仮託であり、ミヤズヒメを祭神とする氷上姉子神社が存在することを利用して、熱田社の起源を説いたという疑いがある。
尾張氏の中核となったのは味美地域から熱田台地に勢力を拡大したグループであり、瑞穂台地のグループは二次的に前者のグループと結び付き、尾張氏という擬制的同族組織の中に組み込まれていったと想定することも可能である。
さらに、新井のように、尾張氏の前身を年魚市県の県主と考える必要もない。
尾張国の他の在地首長。
神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔氏族のなかに、意冨(多・太)臣、小子部連、坂合部連、阿蘇君らとともに、尾張丹羽臣(丹羽郡丹羽郷)、嶋田臣(海部郡嶋田郷)が存在する。また、阿蘇君系譜では、神八井9世孫の大荒男別命の後裔に県主前利(さきと)臣があり、丹羽郡式内社を奉斎した。
丹羽臣一族は東之宮古墳、青塚古墳、曽本二子山古墳という前期から後期までの被葬者一族とみられる。
多氏・嶋田氏は学者の家柄で、太安万呂の父とされる多臣品治は美濃郡安八摩郡の湯沐令であり、品治の勢力基盤は中島郡の太神社の地にあったとされ、のちに中央に進出したと推測する。
尾張国内では神八井耳命を始祖とする同族諸氏が、尾張氏に準ずる勢力を誇っていたと推知される。
壬申の乱で、「尾張国司守」の小子部連鉏鉤(ちいさこべのさひち)が2万の軍勢を率いて大海人軍に帰順している。
和邇氏系氏族では知多郡の知多臣や、山田郡や愛智郡にもいた可能性がある。
尾張氏の中央進出は継体天皇の即位の頃以降とみられるが、ほとんどが下級官人にとどまる。
尾張氏の基盤は依然として本国の尾張にあったと解すべきであろう。