蓮華寺。米原市番場。
蓮華寺は鎌倉幕府終焉を象徴する史跡として歴史書で語られることが多い。元弘3年(1333年)、六波羅探題北条仲時以下主従432名が蓮華寺本堂前で切腹自害したのである。
番場は中山道62番目の宿場町番場宿で知られる。1930年に発表された長谷川伸の戯曲「瞼の母(まぶたのはは)」の主人公である「番場の忠太郎」の出身地とされ、番場宿は有名となった。蓮華寺本堂裏には長谷川伸により1958年に忠太郎地蔵が建立された。
忠太郎は、江州阪田郡、醒が井の磨針峠(すりはりとうげ)の宿場、番場のおきなが屋忠兵衛という旅籠屋に生まれたという設定になっている。「瞼の母」は1955年から61年にかけ映画・テレビ化されて第2次のブームが訪れ、そのころ番場の忠太郎という言葉は人口に膾炙していた。
蓮華寺は現在は浄土宗だが、以前は時宗であった。伝説では聖徳太子の願により、憲崇律師の開基とする。創建当時は法隆寺とよばれた。1284年(弘安7)一向(いっこう)が諸国を巡歴し、当地で念仏を行い、土肥(どひ)入道道日の帰依(きえ)を得て伽藍を再興した。
一向俊聖は浄土宗鎮西派の良忠の弟子で,時宗の宗祖一遍とは別系の遊行聖であったが,ほぼ同時代に生きその行跡が類似していたために混同され,近世には時宗12派の一つとされ,その一向派の本山とされた。
堂宇は、室町時代に応仁の乱の余波を受けて再び焼失したため、戦国時代に再興されている。
2019年5月8日(水)17時過ぎに駐車場に着き、勅使門左の石垣から境内に入った。入山料300円の立札があり、一瞬怯んだ。寺務所へ向かったが誰もいない。目的は北条仲時従士の墓見学だけ。柏原の徳源院も入山料の箱があったが、入れてこなかったので、合わせ技で小銭のあるだけ100円を料金箱に入れて、リーフレットを取り、本堂右手の裏山にある北条仲時従士の墓へ向かった。
六波羅探題北条仲時従士の墓。
北条仲時(1306-1333)は、鎌倉末期の最後の六波羅探題で、元徳2(1330)年六波羅探題北方に就任した。元徳3年,反幕府の兵をあげた後醍醐天皇を大仏貞直,金沢貞冬ら鎌倉からの援軍と共に笠置山に攻めて捕らえ,翌年隠岐に配流した。以後,楠木正成,護良親王らの追討に当たる。元弘3(1333)年天皇方に寝返った足利高氏(尊氏)、赤松則村、佐々木導誉(京極高氏)らと戦うが,六波羅を攻め落とされた。
探題南方の北条時益と共に光厳天皇,後伏見・花園両上皇を擁して鎌倉を目指したが、すでに野伏による残党狩りが始まっており、時益は早々に討死した。美濃との国境近くまで辿り着いたが、五辻宮(亀山天皇皇子守良親王)を奉じた山賊・溢者(あぶれもの)などの軍勢にかこまれ,また高氏に与した佐々木導誉が行く手を阻んでいた。
これ以上東へ逃げることは不可能であると悟った仲時は、番場宿にある蓮華寺に入り、本堂前で一族郎党432名全員切腹して果てたのである。境内は凄惨を極め、流れ出た血が川のようになって流れたとされ、今でも“血の川”の伝承が残されている。
光厳天皇は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器を没収されて京都に戻された。
時の第3代住職同阿上人は深く同情して仲時28歳ほか、6歳の子供から60歳の高齢者に至るまで姓名・年齢・仮の法名一巻の過去帳に記し、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔った。
北条仲時の墓。説明板。
整然と並べられた五輪塔群には、現在、北条仲時の墓は含まれていない。江戸時代の享保年間、彦根藩主の井伊直興(享保2年・1717年没)が馬に乗って蓮華寺を参拝したとき、その夜の夢の中で「馬上から見下ろすとは何事ぞ」と仲時にきつく怒られたため、恐れおののいた直興が近くの六波羅山の山頂辺りに墓を移し替えたという。
鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている宝篋印塔の説明板。
鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている宝篋印塔の説明板。
蓮華寺は、弘安7(1284)年に一向俊聖(いつこうしゆんしよう)がこの地の地頭土肥三郎元頼(道日)と,もと米山山麓にあった古刹を再興して八葉山蓮華寺と号したのに始まるという。
土肥三郎元頼は正応元(1288)年に逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られたという。
このあと、古代豪族息長氏の古墳が残る山津照神社へ向かった。