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米原市 山津照神社  朝妻湊跡 息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族

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山津照神社(やまつてるじんじゃ)。境内案内図。米原市能登瀬。
201958日(水)。ナビに従い、狭い坂道を登ると、鳥居前の境内に出た。しかし、割りと広い駐車場が右下にあったので、無理に登ることはなかった。
 
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山津照神社。鳥居と拝殿。
山津照神社は継体天皇とゆかりの深い息長氏の祖神・国常立尊を祀る。
延喜式神名帳に記載されている式内社である。創建年代は不詳だが、天平神護2766)年に名前があらわれている。
 
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山津照神社。拝殿。
中世には「青木大梵天王」「青木の宮」とよばれ、明治時代以降、旧名に復したが、近在では「青木さん」とよばれ親しまれているという。
別当を世襲した青木氏は息長氏の族裔とみられる。守護佐々木氏の家臣に青木氏の名が見え、その一族で甲賀に住んだ青木筑後守貞景は甲賀を出て今川氏に属し、娘は松平清康に嫁いで家康の父である広忠を生んだ。
 
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境内から南方向(番場宿方向)を眺める。
伊吹山南西麓の横山丘陵の南端にある。息長は息が長いことから鍛冶に関係した語源をもつ。伊吹山周辺は風が強く、製鉄に適した地域である。神社の南を流れる天野川は古くは息長川ともいった。
息長氏の故地を探ろうとしたが、息長氏が東遷を重ねた最終の根拠地ではあるものの、本来のルーツの土地ではないようだ。
 
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山津照神社古墳。
境内にあり、県史跡に指定されている。6世紀前半に築造された全長約43mの前方後円墳。塚の越古墳、後別当古墳、人塚山古墳、狐塚古墳などとともに息長古墳群を構成する古墳の1つで、塚の越古墳に後続する首長墓に位置づけられるとともに、息長古墳群ひいては坂田郡一帯では最後の前方後円墳とされる。
被葬者については、古くは神功皇后の父の息長宿禰王の墓とする説もあったが、不明である。
 
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山津照神社古墳。説明板。
 
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山津照神社古墳。説明板。
 
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明治
15年石室発見時の絵図。
1882年(明治15年)の山津照神社での工事の際に発見され、石棺・遺物が出土している。現在までに墳丘の一部が削平を受けているほか、1994年(平成6年)には京都大学による調査が実施されている。
主体部の埋葬施設は横穴式石室で、内部に家形石棺が据えられている。この石棺からは、明治の発見の際に金銅製冠・刀剣・水晶製三輪玉など多数の副葬品が出土している。出土品は滋賀県立安土城考古博物館で展示されており、後日実見した。
 
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出土品。五鈴鏡など。
5世紀後半の築造とされる名古屋市守山区の志段味大塚古墳からは、五鈴鏡が出土している。
 
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平成
6年の調査。
石見型盾形埴輪は、6世紀、近江や尾張など継体天皇と関わる地域に分布しているという。
 
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朝妻湊跡。米原市朝妻筑摩。
天野川河口、琵琶湖の朝妻入江(筑摩江)に面し、東山道と北陸道の分岐点にも近く、古代、中世を通じ東海、関東と京都を結ぶ要地であった。朝妻と大津を往来する舟を「朝妻舟」といい、遊女を乗せることが多く、『東路記』『新続(しんしょく)古今集』などに詠まれている。また英一蝶(はなぶさいっちょう)の描いた『朝妻船』は名高い。しかし1603年(慶長8)米原港が開かれ、急速に衰微した。
息長氏関連の史跡として紹介されていたので訪れた。息長氏は朝妻湊を押さえ、琵琶湖の水運を支配したとされる。
 
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朝妻湊。説明板。
本日の予定を終了。このあと、道の駅「近江母の郷」へ向かった。
 
近江は古代史の十字路である。
息長氏について、「古代氏族の研究 息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族」(宝賀寿男、2014年)を読んだ。

息長氏族はスサノヲ神(五十猛神・イタケル神)の後裔の天孫族で、初代神武天皇を祖とする皇統や邪馬台国王家と同じ天孫族である。神武天皇の3世代前に分かれ、瓊瓊杵尊(神武の祖父)と同世代の少彦名神を祖とする。

プロト息長氏は宇佐国造の支流出身で当初は九州北部にいた。この系統から、応神天皇・継体天皇が出た。
プロト息長氏の嫡系は、九州を出て、四国の讃岐から対岸の吉備東部を経て播磨西部に移った。このときの息長田別命(武貝児命)は垂仁・景行朝ごろの人で息長氏の名をもった。
その子が針間国造の祖である稲背彦命(息長宿祢王・大江王)で、稲背彦命と垂仁天皇皇女・阿邪美都媛との間に生まれた子が摂津・河内を経て大和に入り、前王統から大王位を簒奪した応神天皇(ホムツワケ・ホムチワケ)である。
応神天皇は宇佐が故地であるので宇佐八幡(渡来系の鍛冶神)の祭伸とされた。
 
5世紀前半の息長氏は応神天皇の弟である品夜別命(息長日子王)に受け継がれた。その子または同一人が稚淳毛(わかぬけ)二俣命(息長真若彦命)で、本拠はまだ播磨にあった。その子が大郎子命(佐芸王)で、このころ河内から近江国坂田郡(米原・長浜)に移遷したとみられる。妹は允恭天皇の皇后忍坂大中姫である。私非王、彦主人王と続き、彦主人王の長男が意富富杼(ヲヲホト)王で、二男が継体天皇(ヲホト)である。
 
意富富杼王、阿居乃王、息長真手王、伊多葉王と続き、息長真人の姓を得る。息長真手王の娘は広媛で敏達天皇の皇后となり、忍坂彦人皇子を生む。その子が舒明天皇で、和風諡号は息長足日広額天皇である。
 
稚淳毛二俣命の子の大郎子命の後裔を狭義の息長氏とすると、奈良時代初期の兵部卿・息長真人老以外は高官は出なかったが、中世まで下級官人として続いた、息長丹生真人氏は奈良時代に中務省画工司の画師に見える。一族では坂田宿祢から出た南淵朝臣年名が貞観末期に正三位大納言まで昇ったが、その後は衰えた。

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