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読書メモ  「古代氏族の研究 息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族」(宝賀寿男、2014年)

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息長氏について、「古代氏族の研究 息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族」(宝賀寿男、2014年)を読んだ。
 
息長氏族はスサノヲ神(五十猛神・イタケル神)の後裔の天孫族で、初代神武天皇を祖とする皇統や邪馬台国王家と同じ天孫族である。神武天皇の3世代前に分かれ、瓊瓊杵尊(神武の祖父)と同世代の少彦名神を祖とする。
プロト息長氏は佐国造の支流出身で当初は九州北部にいた。この系統から、応神天皇・継体天皇が出た。
 
プロト息長氏の嫡系は、九州を出て、四国の讃岐から対岸の吉備東部を経て播磨西部に移った。このときの息長田別命(武貝児命)は垂仁・景行朝ごろの人で息長氏の名をもった。その子が針間国造の祖である稲背彦命(息長宿祢王・大江王)で、稲背彦命と垂仁天皇皇女・阿邪美都媛との間に生まれた子が摂津・河内を経て大和に入り、前王統から大王位を簒奪した応神天皇(ホムツワケ・ホムチワケ)である。
応神天皇は宇佐が故地であるので宇佐八幡(渡来系の鍛冶神)の祭伸とされた。
 
5世紀前半の息長氏は応神天皇の弟である品夜別命(息長日子王)に受け継がれた。その子または同一人が稚淳毛(わかぬけ)二俣命(息長真若彦命)で、本拠はまだ播磨にあった。その子が大郎子命(佐芸王)で、このころ河内から近江国坂田郡(米原・長浜)に移遷したとみられる。妹は允恭天皇の皇后忍坂大中姫である。私非王、彦主人王と続き、彦主人王の長男が意富富杼(ヲヲホト)王で、二男が継体天皇(ヲホト)である。
 
意富富杼王、阿居乃王、息長真手王、伊多葉王と続き、息長真人の姓を得る。息長真手王の娘は広媛で敏達天皇の皇后となり、忍坂彦人皇子を生む。その子が舒明天皇で、和風諡号は息長足日広額天皇である。
 
稚淳毛二俣命の子の大郎子命の後裔を狭義の息長氏とすると、奈良時代初期の兵部卿・息長真人老以外は高官は出なかったが、中世まで下級官人として続いた、息長丹生真人氏は奈良時代に中務省画工司の画師に見える。一族では坂田宿祢から出た南淵朝臣年名が貞観末期に正三位大納言まで昇ったが、その後は衰えた。
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