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岡山県瀬戸内市 ハンセン病施設・長島愛生園 竹久夢二の生家 備前長船刀剣博物館 黒田氏ゆかりの備前福岡 

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長島愛生園歴史館。岡山県瀬戸内市。平成
26514日(水)。備前市伊部地区の見学を終え、瀬戸内市邑久町の長島愛生園歴史館へ向かった。
長島愛生園は、日本で最初の国立のハンセン病()療養所で、昭和5年に竣工した。当初の収容定員は400人で翌31年多磨全生園から転園した85人を収容したのがはじめである。36年,劣悪な待遇に耐えきれず逃亡をはかった患者を監禁したことに端を発して,患者が待遇改善や患者自治の確立などを要求した長島事件が起きているが,愛生園のあゆみは日本の癩病対策の歴史を凝集したものともいわれる。昭和20年頃特効薬ができ、やがて完全に治癒させることができるようになったが、隔離政策は平成8年の「らい予防法」廃止まで続いた。平成13年の「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」でハンセン病に対する理解は向上した。
歴史館の見学はHPによると、予約制なので、1週間前に電話で予約した。個人なので申込書は不要と言われた。一応、14時に来園しますと約束したので、時間に間に合うようにした。長島は船でしか渡れなかったが、昭和63年に邑久長島大橋が開通して、陸続きになった。道路にはゲートや警備所などが残り、隔離地域の痕跡を感じながら、歴史館裏に駐車した。
 
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長島愛生園歴史館。昭和
5年、開園に先駆けて竣工した事務本館は長島愛生園の事務所として平成8年まで使用された。園内は昭和30年代半ばまで、職員と患者の居住地区は厳しく分けられており、入所者は職員地区に建てられた事務本館に立ち入ることはできなかった。また、この場所は長く日本のハンセン病政策を指揮していた場所であり、情報発信基地でもあった。平成15年、事務本館は内部を改修し、長島愛生園歴史館として生まれ変わった。
 
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長島愛生園歴史館。窓と蔦の風景。展示は豊富で、患者の証言映像コーナーもあるので、時間を要した。関東の医科大学の学生
30人ほどが見学しており、学芸員の解説を横で聞くことができた。彼らは別棟で患者からの話を聞くために30分余りで移動していった。
島の施設のジオラマでは、患者地区と職員地区が分離されている状況が具体的に分かる。TV番組の「知ってるつもり」だったと思うが、ハンセン病患者の実態が紹介されて、知ったのは1990年代の終わり頃と記憶している。厚生官僚の無為無策・不作為による犯罪はエイズ・緑十字事件と共通している。
 
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長島愛生園歴史館。玄関から海を眺める。特別展「医師
神谷美恵子が見た世界~長島愛生園の人々とのふれあい~」のコーナーがあった。美智子皇后の先生であり、ベストセラー・ロングセラーの著書であるとは知っていたが、具体的な生涯は知らなかったので、参考になった。
神谷美恵子は昭和33年から14年間、長島愛生園で精神科医として勤務し、精神疾患の診療を行いつつ、悩みを持つ多くの入所者に静かに寄り添い、自らの思索を深め、その中から名著「生きがいについて」「人間をみつめて」等がうまれた。
神谷美恵子は、内務官僚出身の政治家前田多門の娘で、その才媛ぶりには驚嘆させられる。隔離政策に反対しなかったとして批判されることもあるようだが、時代的背景から考えれば、精一杯のことをしたのではないか。長く長島愛生園の園長を務め、文化勲章まで得た光田健輔こそ、批判されるべきだ。光田らにより進められた断種・隔離政策に反対し学会から抹殺された小笠原登医師のことは、愛知県甚目寺出身なので、新聞記事などで目にすることがある。
 
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長島愛生園。歴史館の東方向。園内には隔離政策が実施されていた当時の収容所(回春寮)跡や収容者が上陸した専用の桟橋跡、また、園から逃亡を図った人を収監した監房跡が残っており、歴史回廊として見学することもできるが、
係員も時間もなかったので、見学しなかった。
 
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長島愛生園。歴史館の北方向。
以前見学したタスマニアの流刑地跡を思い出した。世界遺産に登録する動きがある。国家政策の誤りを反省する手掛かりとなれば良い。
1時間余り見学したのち、邑久町の竹久夢二の生家へ向かった。
 
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竹久夢二の生家。邑久町本庄。夢二郷土美術館分館。竹久夢二は明治
17年にこの地で生まれ、16歳まで過ごした。庭には田舟なるものも展示されていて、周辺が低湿地であったことを物語る。
茅葺の生家は代々酒造業を営んでいたせいか、当時としては裕福な家で内部も広い。別棟で夢二の絵画が展示されていた。
 
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少年山荘(山帰来荘)」。竹久夢二の生家近くには、大正
13年に夢二みずからが設計した、東京松原(現世田谷区)に建てたアトリエ兼住居が復元されている。
アトリエは天井が高く広い。内部は洒落た構成になっている。萌えの元祖的存在である竹久夢二は忘れられた存在に近くなっている。
雨が降り出す中、長船町の備前長船刀剣博物館へ向かった。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船鍛刀場。瀬戸内市長船町。備前は砂鉄の産地である中国山地や美作から吉井川の水運により豊富な原料が持ち込まれ、平安時代から多くの刀匠が居住した。吉井川左岸にある長船には鎌倉から室町時代にかけ多くの刀匠が居住して鍛冶屋千軒とよばれるほど繁栄したが、安土桃山時代に吉井川の氾濫により、大打撃を受けた。
1630分頃に入館し、刀剣の制作過程を紹介する映像コーナーや「今泉俊光刀匠記念館」を見学して、備前長船鍛刀場へ向かった。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船鍛刀場。
1300度の高熱と職人が打ち延ばす圧力で、玉鋼から不純物を取り除く鍛錬の工程を見学した。
閉館15分前だったが、見学できた。古代から百錬といわれ、中世には主要輸出産品であった日本刀の優秀なる所以を実感できた。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船刀剣工房。日本刀制作には様々な伝統工芸の技術がちりばめられている。金工・鍔の工房には猫が座っていた。
17時になり、福岡の市跡・妙興寺へ向かうが、邑久の市役所方面で捜し回って、地元の人におそれは長船の方だと教えられ、道を戻ったので、時間を無駄にした。
 
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福岡の市跡。備前福岡は山陽道と吉井川が交わる物資の集散地として、中世は備前一の商都として繁栄した。鎌倉時代の「一遍聖絵」にはその市の様子が描かれ、室町時代初めの武将今川了俊はその道中記に「家ども軒を並べて民のかまどにぎはいつつ」と記している。
吉井川の堤防沿いに「福岡の市跡の碑」が立っている。
近くに妙興寺がある。
 
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妙興寺。備前福岡。寺伝によると、応永
151350)年に播磨守護であった父赤松則興の菩提を弔うために子の日伝上人が当地に草庵を結んだのが始まりとされる。その後、備前や播磨の名流の武家の子が住持となった名刹である。
 
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妙興寺。宇喜多興家の墓。赤松氏の臣浦上氏に仕えていた直家の祖父能家が砥石城(邑久町)で島村氏に討たれたさい、落ち延びた興家・直家父子は福岡の豪商阿部氏のもとに身を寄せた。興家は当地で没し、その供養塔と伝えられるものが妙興寺境内に残っている。宇喜多直家はその後、浦上宗景に仕えたが、永禄
41561)年に宗景を和気天神山城に攻めて没落させ、岡山城を拠点として備前一帯を制圧する戦国大名となった。
 
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妙興寺。黒田家の墓所。黒田官兵衛の曽祖父高政は近江からこの地に移住し、その子重隆は福岡で育ち、姫路へ移住したと伝わる。官兵衛の子黒田長政が、慶長
5年に筑前52万石の大名として博多の西の地に築城したとき、その城下を黒田氏発祥の地備前福岡にちなんで「福岡」と名付けたとされる。墓所には曽祖父高政・祖父重隆のものが含まれているという。
宇喜多興家の墓に比べると、扱いは小さいが、司馬遼太郎「播磨灘物語」に取り上げられた物語なので、興趣は湧いてくる。
 
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備前福岡の町並み。白壁や格子戸が残る町並みには広い街道が通っている。
宇喜多直家・秀家により、岡山城の城下町が整備される過程で、福岡の商人の多くが岡山城下に移住したとされる。また天正時代の大洪水により荒廃したともいわれる。
18時になり、本日の見学を終え、道の駅「一本松」へ向かった。

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