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岡山市東区 古代山城・大廻小廻山城跡 赤磐市 両宮山古墳・備前国分寺跡 岡山市北区 牟佐大塚古墳 

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大廻小廻山城跡。岡山市東区。国史跡。一の木戸跡入口。平成
26515日(木)。本日は、ほぼ雨の中、岡山市東区の大廻小廻山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)、赤磐市の両宮山古墳、備前国分寺跡、山陽郷土資料館、岡山市北区の牟佐大塚古墳、北区御津金川の玉松城跡、御津郷土歴史資料館、東区の西大寺を見学した。
 大廻小廻山城跡は、岡山市東区草ヶ部にある古代朝鮮式の山城跡で、総社市にある鬼ノ城と同じく、築造はほぼ7世紀後半と推定されている。北東部瀬戸町と境を接する標高約200mの大廻山・小廻山に築造され、備前国分寺の南東部約2kmに位置し、山頂からは瀬戸内海を展望でき、古代山陽道に近い要所に築かれている。
城跡は、土塁築成の城壁が山頂部から谷部を取り囲んで山塊を約3.2㎞に亘って一周しており、城壁が谷を渡る3ヵ所には水門石垣が築かれ、一の木戸では通水施設をもつ石塁構造などが確認された。城門遺構や城内建築物などの遺構は見つかっていない。
 
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大廻小廻山城跡。岡山市東区。国史跡。一の木戸跡。岡山市東区瀬戸町観音寺にある瀬戸町郷土館に駐車して、南に歩くと一の木戸に至るということだったので、瀬戸町郷土館に行くと、駐車場がなく、道なりに上へ登ると、施設から若い職員が出てきて、何をしているというので諦めて、直接観音寺湯谷の集落にある入口まで進み、路肩に駐車した。標識に従い谷筋の小道を歩くと、右側に池があり、さらに数分登ると一の木戸跡が見えてきた。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡。城壁の土塁が廻る谷川部分に水門として築造されている。土塁は外側下部に列石を整然と積んで基礎を固め、その上を版築盛り土で覆っており、版築を含むと盛り土の幅
510m、高さ約2mであった。
列石の石材は、現地で採ることのできる砂質ホルンフェルスを中心としたものであるという。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡。一の木戸は、現状で高さ
2.4mを測り、石塁主軸に対して72度で斜交する通水施設を持っている。通水施設は、吸水口で高さ0.4m、幅1.0mを、排水口で高さ0.7m、幅0.7mの規模を測る。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡から
200mほど先の地点。ここから先は草で覆われて、ズボンの水濡れが激しくなることが予想されたので断念した。南側の車道から山の頂上台地にアクセスできるようだが、この方面には遺構は少ないようだ。
一の木戸跡以外にも、折れを伴った列石線、谷部分の二の木戸跡の石塁構造などが確認されている。また、土塁線の比高差は約110mで、89箇所の折部を伴うことも確認されている。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡手前の池から。中央の谷部に一の木戸跡があり、右が小廻山、左が大廻山。水が豊富な地帯のようだ。
見学施設としては、整備が進んでいなかった。北にほど近い両宮山古墳へ向かう。
 
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両宮山古墳。赤磐市穂崎。国史跡。中堤南西部から。岡山県内では5世紀前半に造られた造山古墳(岡山市新庄下:
350m)、作山古墳(総社市三須:283m)に次ぐ第3位の大きさの前方後円墳。築造は5世紀後半と推定され、周濠をもち、全長は206m。平成1416年の調査により、周濠の外側をめぐる新たな周濠が発見され、築造当初は2重の周濠をともなっていたことが明らかになった。2重の周濠までを含めると、古墳の総延長は主軸線上で349mにも及ぶ。
墳丘は前方部幅約120m、後円部径約100m、前方部、後円部ともに高さは約20m。内部主体部などは不明である。
墳丘の平面形は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の5分の2の大きさに設計されており、両宮山古墳に埋葬された人物は大和政権の有力首長と強い結びつきをもっていたと推測される。
両宮山古墳の墳丘には、一部が埋没して水田化しているものの、水をたたえた周濠が巡っている。江戸時代以降、周濠は農業用のため池として改修・再利用されてきた。こうした景観を美しく残す古墳は、岡山県内ではこの古墳のみというが、築造当時から水濠であったかは不明のようだ。
赤磐市の観光案内所「稚媛の里」に駐車し、南西部から中堤へ登る。
 
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中堤南西部から南西の岡山市方向を眺める。「稚媛の里」前を通る県道は、ほぼ古代山陽道のルートを踏襲しているようだ。両宮山古墳のすぐ西には備前国分寺跡があり、両側に山が迫った隘路を抜けると、牟佐大塚古墳がある。
 
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両宮山古墳。中堤南東部から。墳丘は三段築成であり、前方部の南西側は保存状態が比較的よく、中段と下段のテラスが残っている。墳丘の両側のくびれ部には極めて高い造り出しがある。
 
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両宮山古墳。中堤東部中程から南西方向
 
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両宮山古墳。南の前方部には両宮(伊勢)神社が祀られている。民家の脇の狭い道をたどって墳丘に登る。
墳丘上の調査は実施されていないが、これまでに葺石も埴輪もみつかっていない。このことは古墳築造の最終作業が行われなかった可能性があり、両宮山古墳の謎となっている。何らかの原因で通常の埋葬が実施されなかったと推定されている。また、両宮山古墳が築造された以降は、この地域で同規模クラスの大形古墳が認められなくなり、吉備の政治的衰退と結び付けられて語られる。
被葬者を吉備上道臣田狭とする説がある。日本書紀によれば、稚媛の夫、吉備上道臣田狭は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していた。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪ってしまったという。
雄略天皇7(463)年に吉備上道臣田狭が、雄略天皇が崩御した同23年には、稚媛・星川皇子が、大和政権に対して反乱を起こしたとされる。しかし、いずれの反乱も鎮圧されてしまい、これらを機に吉備の政治的衰退が始まったとされ、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになってしまったという可能性がある。
この地域が吉備上道氏、西の造山・作山古墳地域が吉備下道氏の勢力圏であったようだ。
 
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両宮山古墳。前方部と後円部の境にある造り出しの部分。
 
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和田茶臼山古墳。国史跡。両宮山古墳の北側には和田茶臼山古墳とよばれる陪塚がある。帆立貝式の前方後円墳で墳丘全長は
55m。二重の周濠を廻らしている。
両宮山古墳の西側にある備前国分寺跡へそのまま歩いて向かう。
 
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備前国分寺跡。国史跡。石造七重層塔は国分寺に建てられていた七重塔跡の心礎の上に鎌倉時代後期に建てられた。国分寺は天平
13741)年に建てられたとみられる。七重塔は寺域の南東部にあり、西には金堂や講堂が並んでいた。平安時代中頃には塔が失われ、平安時代末には講堂が焼失し、金堂も使われなくなった。講堂は建て直され、規模は縮小されながらも続いていたが、16世紀後半には廃絶したと推定されている。
南側には山陽新幹線の路脚が通っている。
県道を西の岡山市方向へ進み、牟佐大塚古墳へ向かう。
 
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牟佐大塚古墳。岡山市北区牟佐。国史跡。備中のこうもり塚古墳
(総社市)・箭田大塚古墳(倉敷市)と並んで,岡山県における三大巨石墳の一つ。牟佐は旭川が平野部へ流れ出る位置にあり、古代の山陽道が旭川を渡る地点で、水路と陸路が合流する交通の要衝の地といえる。
墳形は前方後円墳や方墳という見方もあるが、現況では径30mほどの円墳である。6世紀末の築造とされる。
古墳周辺は道が狭く、県道近くへ戻って路肩に駐車した。
 
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牟佐大塚古墳。石室全長
18.0m、玄室部の長さ6m、同幅2.8m、羨道の長さ12.0m、同幅1.82.4mである。両袖式である。
 
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牟佐大塚古墳。玄室部には長さ
2.9m、幅1.6mの家形石棺があり、石材は井原市白山で産出する貝殻石灰岩である。
本墳は、両宮山古墳などの遺跡が密集する山陽町の盆地と、旭川東岸の平野部との中間に位置しており、両地域を押さえる立地といえる。いずれも古代の有力豪族である上道氏の拠点であり、本墳も上道氏の古墳と考えられる。なお、吉備上道氏の本拠地は、旭川下流東岸の高島・竜操学区の地域とされる。
このあと、赤磐市の山陽郷土資料館へ向かった。 

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