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岡山市北区 備前松田氏の居城・玉松城(金川城)跡 不受不施派・妙覚寺 東区 西大寺

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七曲神社。岡山市北区御津金川。平成
26515日(木)。本日は岡山市東区の大廻小廻山城跡、赤磐市の両宮山古墳、備前国分寺跡、岡山市北区の牟佐大塚古墳、赤磐市山陽郷土資料館を見学したあと、岡山市北区御津金川の玉松城(金川城)跡、御津郷土歴史資料館、東区の西大寺を見学した。
七曲神社の背後の山域が標高225mの臥龍山で、戦国時代に備前松田氏が玉松城(金川城)を築いて居城とした。七曲神社は松田氏が郷里相模国から氏神の七曲神社を勧請し、相模国の神奈川(金川)の地名をこの地に移したと伝えられる。社殿は高台にある。
江戸時代、金川には岡山藩の家老で16千石を知行した日置氏の金川陣屋が置かれた。
 
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玉松城命名五百年記念碑。七曲神社の境内に、玉松城命名
500年を記念した碑が建っている。
實隆公記の永正6(1509)年閏827日の条に「泰首座今日下向備中云々 松田城名事先日所望之間麗水 玉松 二書遣之了」とある。内大臣三條西實隆は当時を代表する文化人で、応仁の乱頃から63年間にわたる日記「實隆公記」は、この時代の根本史料と評価されている。
備前松田氏中興の祖・第8代金川城主元成のあとを継いだ元勝は、西備前の武備と経営と、日蓮宗の広宣につとめた。左近将監に任じられ、奥方は、三條右大臣實光公女と系譜に記されている。城名は麗水・玉松のうち玉松が選ばれた。平成21年(20094月吉日に玉松会が建立した。
 
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妙覚寺。日蓮宗不受不施派本山。江戸時代末期から日蓮宗不受不施派の公認を訴えていた御津出身の名僧釈日正により明治
9年竜華教院として創建された。その後、玉松城跡の石垣を買収して境内を整備し、明治15年に派祖の日奥がいた京都妙覚寺にちなんで寺号を改めた。
不受不施とは信仰心のないものから布施は受けず、他宗には参詣・布施をしない法華宗の作法であった。法華信仰は玉松城主松田氏の庇護を受けて備前に広まった。文禄31594)年に京都方広寺での供養をめぐって、出仕を拒否した不受不施派と権力と妥協した受不施派に分裂し、妙覚寺の日奥は迫害追放された。寛文51665)年、幕府が不受不施派を禁教とすると、岡山藩は徹底的に弾圧し、転宗を拒んだ僧侶・信者は斬首・入牢・追放されたが、転宗を装った内信者や不受不施僧は信仰を守り続けた。
 
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岡山市御津郷土歴史資料館。妙覚寺の西にある。玉松城跡を眺める。登城口に近いので、入館して、資料や情報を入手した。登城の駐車スペースとしても利用できる。
 
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岡山市御津郷土歴史資料館。岩井山古墳群出土陶棺
12号墳からは土師質亀甲形陶棺、13号墳からは須恵質家形陶棺が出土した。古墳時代後期に使われた陶棺は岡山県と畿内で集中的に出土し、美作地方で全国の半分が出土している。
 
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玉松城(金川城)跡。登城口。妙覚寺の西側。
JR津山線のレール下を潜り、坂を上る。本丸跡まで約25分。
 
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玉松城跡。案内図。南と西に宇甘川、東に旭川が天然の濠となっていた。この二つの川を利用する水運の基地であり、備中高梁へ向かう松山往来の基点でもあり、水陸交通の要衝であった。江戸時代には日置氏の陣屋町として栄え、街道宿や高瀬舟の発着する川湊として賑わった。
 
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玉松城跡。道林寺丸跡付近の尾根から北西を眺める。宇甘川と北の山並み。
 
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玉松城跡。本丸跡。本丸跡は約
33aの平坦地で山頂の中央に位置している。
 
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玉松城跡。本丸跡の縄張り図。玉松城は岡山県内の山城のなかでも最大級の規模をもつ。本丸の南側にある二の丸跡は、城内でも一番広い平坦地で、杉の木井戸がある。本丸跡・二の丸跡の石垣は明治時代初期、妙覚寺の造営にあたり取り壊されて原型を留めていない。本丸跡の南西には三の丸跡には、松田氏が日蓮宗に凝り過ぎたため、滅亡のもとになった道林寺跡がある。
 
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玉松城跡。本丸跡。松田一族供養塔。玉松城の城主は西備前の雄松田氏であった。松田氏中興の祖といわれた元成は、備前守護代として勢力を広げた。播磨の赤松政則は松田氏を攻めて、文明
151483)年に福岡の合戦がおこった。元成は、初め富山城にいたが、赤松氏との関係悪化により、山間の金川に引いて本拠とした。元成は備後の管領山名政豊と結び、赤松・浦上連合軍と戦って福岡城(長船)を攻め落し、翌年浦上則国を破るが、吉井川の天王原(長船)で大敗し、敗死した。その後、元成の子元勝が跡を継ぎ、西備前で勢力を振るったが、永禄111568)年、4代後の元賢が宇喜多直家と家臣虎倉城主伊賀久隆に攻められて滅亡した。
松田氏滅亡後、宇喜多直家の弟春家が入城、同氏滅亡後は岡山藩家老日置氏が入城したが、元和の一国一城令により破却された。
 
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玉松城跡。天守の井戸。本丸跡から北へ下った場所にある。
 
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玉松城跡。天守の井戸。直径約
8m、深さ約10.5mと巨大である。これほどの井戸は見たことがない規模であった。
 
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玉松城跡。本丸跡下の虎口。二の丸跡との間にある。時間がないので、本丸跡に戻り、往路を下った。
今夜の宿も道の駅「一本松」を予定していたので、帰路途中にある岡山市東区の西大寺へ向かった。
 
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西大寺。本堂と観覧席
2月の第3土曜日に開催される会陽は有名だが、こんな席があるとは知らなかった。
 
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西大寺。牛王所殿。明治
13年再建の、拝殿・本殿・奥殿と分かれる神仏習合の鎮守堂。当殿は複合社殿と言われ、本殿には楼閣を乗せ、軒垂木部分では国内でも唯一の構造を持つなど、極めて珍しい社殿である。奥殿には一山の守護神で当殿の本尊牛玉所大権現が祀られ、本殿には白玉文殊菩薩と牛玉所大権現の前立てと共に、金毘羅大権現を合祀している。
この金毘羅大権現は、本来は讃岐の象頭山に金毘羅大権現のご本体として安置されていたものである。
新しく整備された奥殿にパワースポットがあるという看板に釣られて、本堂右奥に進むと、牛王所殿があった。金毘羅に行ってきたという女性の観光客がいて、金毘羅大権現がここにあると聞いたので来たと言っていた。
 
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西大寺。活力のクスノキ。パワースポットは有料だったので、近くにある楠に代わりに祈願した。
 
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西大寺。石門。文政
2(1819)年に完成したこの門は、会陽の裸群が身を清める、垢離とり場にかかる竜鐘楼のことである。下の構えが石で、上が木材を使う門として古建築史上、国内では数例しか確認されておらず、特にその中でも文化財的価値は最高位に位置づけられている。変わった建築物なので印象に残った。竜宮城のように見えた。
1730分を過ぎたので、道の駅「一本松」へ向かった。

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