常山。岡山県玉野市。平成
26年5月18日(日)。玉野市の道の駅「みやま公園」で起床。北西へ進み、常山へ向かった。常山は児島半島で3番目に高い山で、標高は307m。秀麗な山容から児島富士ともよばれ、山頂の常山城は戦国時代の常山合戦で有名である。現在でも本丸・二の丸・三の丸跡や底無し井戸、常山合戦で悲惨な最期を遂げた女軍の供養碑が残っている。常山城跡。登城口。桜並木の車道出合。友林堂上。山頂付近の駐車場まで車道が通じていたが、近年の土砂崩壊により全面通行止めになっており、登山道を登るしか登城の道はない。近くに駐車スペースがあるが、民間所有らしいので、表示のない箇所に駐車した。標識を右に石段をのぼる。
7時29分に登城口から登り、8時00分に本丸跡に着いた。熟年男性が一人先行していたが、途中で抜き、帰途に熟年夫婦と行き合った。道なりに底無し井戸まで登って、その先で右折して車道に出て、山頂下の栂尾二の丸跡にある駐車場へ行き、石段を順次登ると本丸跡に着く。
常山城跡。底無し井戸。今でも水は溜まっている。周囲はコンクリートで囲われている。
常山城跡。案内図。栂尾二の丸跡の駐車場に案内板がある。北の曲輪群だけでなく、東にも曲輪群があり、山頂の本丸を中心に合計
14の曲輪で構成される連郭式山城である。常山城跡。女軍の墓。北二の丸跡。城主上野高徳と妻の鶴姫、高徳の母の墓を囲んで
34人の女軍戦士の墓が並ぶ。旧盆前の日曜日には地元の婦人会などが鎮魂の踊りを墓前に奉納するという。
上野高徳の妻鶴姫は備中松山城(岡山県高梁市)の三村元親の妹である。三村元親の父家親は毛利氏の傘下に入り、備中を勢力下に収める戦国大名として成長した。それを恐れた宇喜多直家は刺客を放ち、永禄9(1566)年に家親を暗殺した。翌年三村元親は父の弔い合戦と称し約2万の軍をもって備前に進攻したが、待ちかまえた宇喜多軍に敗れた。
天正2年(1574年)毛利氏の山陽道守将・小早川隆景は宇喜多直家と同盟を結ぶ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は義憤を以って毛利氏より離反し、織田信長に内通した。この年の冬、三村氏の離反に危機を感じた毛利輝元は小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、備中兵乱の口火が切られた。信長の命を受けた羽柴秀吉は、毛利に味方する中国諸将の反撃により救援できず、三村氏は孤立した。天正3年5月備中松山城は陥落。城を脱出した元親は自刃し、三村氏は滅んだ。
備中松山城落城後の6月4日、毛利軍6500は三村元親の妹(鶴姫)の婿・上野隆徳が拠る三村一族最後の城である常山城を包囲した。二日後、大手の木戸が破られ、敵が二の丸に攻め寄せた。味方はわずか200余騎。高徳は一族の自決を決断した。7日明け方、城内で酒宴が開かれ、互いに別れを惜しむ女たちの声が聞こえた。午前8時、高徳の57歳になる継母は、縁の柱に刀を固定させ、刃先に突進して胸を貫いた。15歳になる嫡子の高秀も自刃し、8歳の二男は高徳が刺し殺した。
この光景を間近にした33歳になる鶴姫は武将の娘として一戦もせず、ただ自害するのは口惜しいと思った。鶴姫は鎧をつけ、身の丈にもなる長い黒髪に白綾の鉢巻をし、三枚甲の緒を結び、三尺七寸の太刀をはき、白柄の長刀を小脇にはさむと、広庭に躍り出た。驚いた女房たちが「女は五障三従の罪が深く、ただでさえ成仏できぬというのに、その上戦えば、あの世での修羅の責め苦は免れますまい」と制止すると、鶴姫は「おのれは邪正は同じと観念し、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦しみも極楽の営みと思えば、なんぞ苦しいことがあろう」と妖艶な笑みを浮かべた。
「ならば我らもお供を」と、女房たち34人は鉢巻きを締め、ここかしこに立て掛けてあった長柄の槍を取った。
これを見た家僕たち83人も、最後の奉公と鶴姫の先陣を務めて門を開き、毛利軍の先鋒・浦宗勝の率いる700の軍勢の真っ只中に斬り込んだ。士気あがる女軍戦士は毛利勢数十人を討ち取る。鶴姫は馬上に大将の宗勝を見つけ、「我と一勝負を」と一文字に斬り込んだ。一撃をかわした宗勝は「そなたは強きにせよ、女なれば勝負はできぬ」と退いた。宗勝との勝負をあきらめた鶴姫は腰の刀を抜くと、「これは父家親が秘蔵の国平の名刀、そなたに差し上げる。後生を弔って下されよ」と言い残して、引き揚げを命じた。
夫の元に戻った鶴姫は南無阿弥陀仏を念じながら、太刀を口に含んで、身をうつ伏せにして、血の中に命を絶った。その妻の最期を見届けて高徳も自刃したのだった。
常山城跡。本丸跡。上野高徳公碑、腹切り岩、展望台がある。
上野氏は足利氏の庶流で、足利泰氏の六男上野義弁に始まる。義弁の孫上野頼兼は、足利尊氏に従って転戦し、功により石見守護に補任され、西国における北朝勢力の拡大に尽力した。上野氏は、京都にあって奉公衆三番頭となるなど、足利将軍家の近臣として幕府の中枢の業務を担った。
足利義稙は永正5(1508)年に将軍に返り咲くと、備中を固めるため永正6年、近臣の上野信孝(尚相弟)らを当国へ下した。信孝は備中国下道郡下原郷鬼邑山城に入り、義稙方の拡大に奔走した。その後、永正年中に信孝は鬼邑山城に一門の上野高直を入れ、上野頼久をして備中松山城に封じたのをはじめ、近郷の諸城に諸将を配し、自らは帰洛して再び幕府に近侍した。
備中松山城主の上野氏は天文2(1533)年上野頼久の子頼氏のときに、庄為資によって攻め滅ぼされた。
一族の上野高直は信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入り、高直の後は嫡子高徳が家督を継ぎ喜村山城主となった。高徳は弘治年中(1555年-1558年)に備前常山城に移り、この城を居城としたという。
高徳は、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城主となった三村家親の娘を室とし、備中一円に勢力を広げる三村氏との縁故を深めていった。
常山城跡。本丸跡。腹切り岩。上野高徳が自害した岩という。
常山城跡。本丸跡。展望台から南東の眺望。左はみやま公園、豊島、小豆島。右は直島方面。児島半島の先に、瀬戸内海を一望する。
常山合戦ののち、常山城は毛利氏の支配下に置かれたが、毛利氏の築城技術と言われる竪掘や堀切の遺構は発見されていない。毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと推定されている。
常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点であったが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、慶長8年に廃城となった。城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられている。
常山城跡。本丸跡。展望台から北東の眺望。児島湾干拓地、児島湖、児島湾方面。
常山城跡。東の曲輪群。本丸跡から方向を東に変えて下りていくと、北の曲輪群に勝るとも劣らない曲輪群があった。児島半島・瀬戸内海方面への眺望があった。
途中で北に道を変え、底無し井戸を経て、登城口に下りた。
このあと、岡山市の雄町の井戸へ行き、備中高松城方面へと向かった。