おまちアクアガーデン。岡山市中区雄町。平成
26年5月18日(日)。玉野市の常山城跡を見学し、おまちアクアガーデンへ向かった。ここは水汲み場を備えた公園で、現在は水汲みができない名水百選「雄町の冷泉」の近くにある。いずれも旭川の伏流水が湧出しているものであり、雄町の冷泉は岡山藩池田家の御用水として使われていた。
北西約1.5㎞には16日(金)に見学した備前国庁跡があり、一帯は水に恵まれた地帯と言える。アクアガーデンは1・3金曜日は休園なので、前々日は訪れなかった。日曜日の午前中とあって、車や自転車で水汲みに来る人が絶えなかった。
西へ進み、備中高松城址公園へ。
高松城址公園資料館。岡山市北区。高松城水攻め陣立ての模型。天正
10(1582)年5月、羽柴秀吉率いる軍勢3万は備中高松城を囲んだが、力攻めができず、黒田官兵衛の進言により水攻めにとりかかった。約2.7㎞の堤防を築き、足守川の水を引き入れ高松城を湖の孤城にしたのである。6月2日の本能寺の変を3日に知った秀吉はそのことを隠して、安国寺恵瓊と交渉し、4日高松城主清水宗治は切腹した。高松城址公園資料館。
1985年の大雨時の写真。高松城本丸跡を残して周辺は水没している。高松城は深田や沼沢に囲まれた平城で水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。高松城址公園。高松城本丸跡。国史跡。水攻めのときは梅雨の頃で、増水した足守川の水が流れ込むと、たちまち
188aの大湖水ができて城は孤立した。高松城址公園。高松城本丸跡。
高松城址公園。高松城本丸跡。清水宗治首塚。宗治の切腹後、秀吉は石井山に供養塔を造らせたが、明治になって現在地に移された。首塚の横には。宗治の辞世の句「浮世をば 今こそわたれもののふの 名を高松の 苔に残して」の碑が立っている。
高松城址公園だけでは水攻めの状況が分からないので、南東にある蛙ヶ鼻の築堤跡へ向かった。。
蛙ヶ鼻の築堤跡。国史跡。蛙ヶ鼻は石井山の南に位置し、堤防の跡が唯一残っている。ここから西に堤防が造られた。現在は史跡公園になっており、南北に駐車場がある。
蛙ヶ鼻史跡公園の説明図。
蛙ヶ鼻史跡公園の説明図。水攻め築堤跡の調査。平成
10年に、築堤の遺構状況を確認する発掘調査が実施された。その結果、築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部が確認された。堤防の盛土は、周辺の丘陵部から運び込んだとみられる花崗岩風化土が主であった。盛土の最下層では杭列とともに土俵(つちだわら)の痕跡が確認された。さらに、その下は深い粘土層が堆積しており、築堤以前には一帯が湿地であったと判断された。
蛙ヶ鼻史跡公園。復元された築堤の基底部。杭列など。
蛙ヶ鼻史跡公園。高松城跡高さ表示板。最上部「現存築堤高 標高
8.4m」、二段目「本丸最上段高7,0m、三段目「本丸上段高6.6m」の表示が示されている。蛙ヶ鼻史跡公園。築堤跡の側面。史書によると堤防の長さは蛙ヶ鼻から約
2,7㎞、規模は高さが約7m、幅は底部が約24m、上部が約10mと伝わる。最近では。延長約300m、高さ約2mという説が有力という。
蛙ヶ鼻史跡公園。築堤上部。
北の龍王山中腹にある最上稲荷へ向かった。
最上稲荷。仁王門。岡山市北区。有料駐車場から
10分ほど商店が立ち並ぶ参道の石段を昇ると、ようやく境内の一画にある仁王門の前に着いた。旧仁王門が昭和25年の山火事で焼失したため、昭和33年に再建完成した。インドの殿堂様式で建造された石造りの仁王門は珍しく、平成21年に登録有形文化財に指定された。平成25年に改修工事が行われ、本年、落慶法要が営まれた。ボタンを押すと金色仁王尊像に照明が当たる仕掛けになっている。最上稲荷。神宮形式の本殿(霊光殿)。昭和
54年に完成。本殿前には長さ約 12m、総重量1.5tの大注連縄がかけられている。最上稲荷の歴史は、天平勝宝4年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行った。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたという。その後延暦4年(785)年、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立された。
以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」の像のみが八畳岩の下に移され難を免れた。この像をもとに慶長6年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築いた。
当日は「鑽仰茶会」が開催執行されました。この行事は、昭和55年の本殿落慶を記念して開催され、和服姿の女性が多かった。
最上稲荷。旧本殿(霊応殿)。寛保元(
1741)年に再建された建物で、新本殿建立の際に曳家工法で当地に移された。当山最古の木造建築物。 最上稲荷。旧本殿(霊応殿)。御祈祷を受ける高齢の女性が家族に連れられて来ていた。
最上稲荷。旧本殿(霊応殿)から本殿と駐車場方面を見下ろす。
最上稲荷。八畳岩への登り口。予定はしていなかったが、折角なので登る気になった。
最上稲荷。登り出すと、すぐに滝と水垢離場が石段左にある。
最上稲荷。八畳岩。登り口から
15分ほどで到着。道標が各所にあり分かりやすい。報恩大師の修行によって、最上尊が降臨した霊地。岩上部の平面は畳が八畳敷ける広さがあるためこの名が付いたといわれる。
最上稲荷。八畳岩。南無妙法蓮華経と彫られている。最上稲荷は日蓮宗の寺でもある。
最上稲荷。八畳岩からの眺望。備中高松城の水攻めのさい、秀吉の本陣は初めこの近くに設けられた。のちに、中央の石井山という小高い丘陵に移された。
最上稲荷。八畳岩からの眺望。中央に備中高松城本丸跡がある。周囲が低地であることが良く分かる。中央奥左の丘陵に小早川隆景の陣があった。その向こうは倉敷の美観地区である。
このあと、足守川沿いに北西に遡って、旧足守藩の城下町へ向かった。