Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

岡山県倉敷市児島 旧野崎家住宅 下津井城跡 鷲羽山

$
0
0
イメージ 1
旧野崎家旧宅。重文。倉敷市児島味野。長屋門。平成
26518日(日)。本日は、玉野市の常山城跡、岡山市のおまちアクアガーデン、備中高松城跡、最上稲荷、城下町足守、古代吉備文化財センター、吉備津彦神社を見学後、倉敷市児島味野の旧野崎家住宅へ向かった。
 
旧野崎家旧宅は、江戸時代後半に児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」とよばれた野崎武左衛門17891864)の居宅で,低い丘陵を背景に長屋門,御成門の門建築が配され,その奥に南北に連なる広大な敷地が画されている。
敷地面積は約3000坪・建物延床面積は約1000坪ある。長屋門を入ると、濃い緑を背景とした本瓦葺の主屋群が軒を連ねて美しく、これに並んで威風堂々と軒を連ねる土蔵群がある。
建物と庭園がこれほど創建のままに保存されている民家は稀であり、山陽道の代表的民家と言える。
また、土蔵内の展示室では塩業の歴史資料も展示されている。
 
長屋門は桁行約26mの堂々とした構えで、石垣は鉢巻積みの工法によるもの。七段の石段を上がると右に桃座敷、左に南座敷がある。このような門造りは江戸時代の大庄屋建築のなかでも特に壮麗であり、天保9(1838)年に竣工している。
16時頃に入館したが、1630分まで受付け、17時閉門であった。
順路は時計回りに指定されており、まず表書院からの見学となる。
 
イメージ 2
表書院。玄関
 
イメージ 6
表書院。野崎家住宅の中心となる建物で、貴賓の応接にあてられた。1年半の工期をかけ嘉永
51852)年に竣工した。
 
昆陽野(こやの)武左衛門(のち野崎)は味野村に生まれで、父親の事業失敗のため貧苦の中で育ち、足袋の製造販売をてがけたのち、塩田開発に着手し、文政101827)年から文政12年にかけて、味野村・赤碕村の沖に488反歩の塩田を最初に完成させた。両村から1字ずつとって野崎浜とよばれ、野崎という姓はここからとったもので、JR児島駅付近は野崎浜の跡地である。
その後も文久3年(1863)年までの間に日比亀浜、東野崎浜、久々井浜など終生161haの入浜式塩田を開発した。
その間、岡山藩の命によって、福田新田652haの大干拓事業も完成させ、備前きっての大地主となった武左衛門はその功により、嘉永61853)年に大庄屋格に取り立てられた。
 
イメージ 4
表書院。庭園。奇石・巨石を組み,松やツツジ,苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっている。陰陽石は
19対あるという。武左衛門が最初に築いた野崎浜塩田によく似ているお駕籠石が前庭に配されている。
 
イメージ 3
表書院。菊模様の襖と波模様の欄間。
 
イメージ 5
表書院。庭園。観曙亭(かんしょてい)。
庭内には、観曙亭・容膝亭・臨池亭の三席の茶室がある。観曙亭は、庭の築山にある二畳台目の茶室で、杉材を用いて建てられている。
 
イメージ 7
中座敷
野崎家が住まいの中心とした主屋は天4年(1833)年頃の建築である。中座敷から向座敷まで23間(42m)にわたり9つの座敷が連続している。
 
イメージ 8
台所。従業員食堂として昭和初期まで使われていた。
 
イメージ 9
味噌蔵。内部。
 
イメージ 10
土蔵群。主屋の右手にある。右から岡蔵・新蔵・書類蔵・大蔵・内蔵と並ぶ。
広い内部には、塩業の歴史資料が展示されている。
 
イメージ 11
溜石(ためいし)。塩を煮詰めるために使用する石炭の重量を量るため、船に積んで吃水線の印を付ける用途に使用した分銅用の石。
1個は16貫、約60㎏の重さがある。
 
イメージ 12
長屋門。館の内側から。土産品の塩袋を片付けていた。30人ほどの熟年男女の団体が、私より遅れて入場し、酔っぱらた爺さんが私にトイレはどこかと尋ねてきた。
1645分頃に退館し、下津井港方面へ向かった。
 
イメージ 13
下津井城跡。大手付近。倉敷市下津井。下津井城は宇喜多秀家が文禄年間(
159296年)に築城したといわれる近世前期の平山城で、下津井港北方の瀬戸内海を見下ろすに城山(標高89m)の南端に位置している。
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋の家臣平岡石見守が在城したころに瀬戸内海の制海権を考慮して城を強化、さらに岡山藩主となった池田忠継のとき、城代の池田長政が徳川家康の意をうけて、下津井城の縄張りを行い、常山城(玉野市)の資材を用いて改築し、近世城郭として整備した。城主は代々、ほぼ32千石を領したが、一国一城令により、1639(寛永16)年に廃城となった。
現在は瀬戸大橋架橋記念公園として整備され、城跡に残る石垣や土塁が面影を伝えている。
瀬戸大橋架橋記念公園を目標に進み、海側の舗装道を東進、標識に従い、山側の狭い道を急登すると、大手に当たる場所に着いた。残存する石垣は近世城郭らしく立派なものである。
 
イメージ 14
下津井城跡。本丸下の石垣
石垣づたいに東へ進むと、二の丸跡に出る。
 
イメージ 15
下津井城跡。二の丸跡
 
イメージ 16
下津井城跡。二の丸跡。遺構図。連郭式の平山城で、西から西の丸、二の丸、本丸、三の丸、中の丸、東の丸が直線的に配されている。また、小さいながらも本丸には天守があった。城の北側の丘陵に侍屋敷が配されていた。
北へ一段上の本丸方向へ進む。堀切状の地点からは北側の民家へ続く道がある。
 
イメージ 17
下津井城跡。本丸跡。本丸には天守閣・櫓・門、北側の平地に城主の居館を配置したと伝わる。
 
イメージ 18
下津井城跡。三の丸跡。東の丘陵地は見晴らしがよく、瀬戸大橋や瀬戸内海の島々が見渡せる。
 
イメージ 19
下津井城跡。三の丸跡。南側に下津井の町並みを見下ろす。
城跡見学を終え、下津井港方面へ下る。
 
イメージ 20
下津井港付近の海辺から。瀬戸大橋・塩飽諸島の島々。
東進し、鷲羽山の展望台へ。
 
イメージ 21
鷲羽山山頂から。瀬戸大橋、塩飽本島、坂出方面。
駐車場から15分ほどで、標高134mの山頂に着いた。入れ替わり立ち代わり、人が登ってくる。鷲羽山山頂には35年ぶりに来た。当時は瀬戸大橋はなかった。
 
イメージ 22
鷲羽山山頂から。瀬戸大橋、塩飽本島方面。
 
イメージ 23
鷲羽山山頂から。ビジターセンター、釜島、大槌島、五色台方向を望む。
 
イメージ 24
鷲羽山山頂から。「日本の夕陽百選」にも認定されており、西に位置する下津井海岸・下津井城跡・鷲羽ハイランドの彼方に夕陽が沈んでいった。
 
イメージ 25
羽山山頂付近から。大槌島・小槌島。火山錐(ヒュート)。三角帽子に似た二つの島は火山錐の島で、昔活動した火山体は長い年月の間に浸食されて円錐状に残ったもの。
本日も道の駅「みやま公園」で泊まるつもりだったが、日没になったので鷲羽山駐車場で車中泊した。午前1時過ぎにパトカーが来て職質したので、文句をいってやった。
翌日は吉備中山、総社方面を見学した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles