吉備津神社。本殿・拝殿。国宝。岡山市北区。平成
26年5月19日(月)。本日は岡山市の吉備の中山周辺、総社市方面を見学した。鷲羽山駐車場から出発し、通勤ラッシュを抜けて、吉備の中山北西麓の吉備津神社に8時30分頃到着。吉備津神社には15年ほど前に訪れているが記憶に残っていない。吉備津神社は岡山県を代表する神社で、吉備津造り(比翼入母屋造)の社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られている。
主祭神は大吉備津彦命で、本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の分割により備中国一宮となった。大吉備津彦命は7代孝霊天皇の第三皇子で、崇神天皇10年に四道将軍の一人として山陽道に派遣されて吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
本殿と拝殿は後光厳天皇の命で将軍足利義満が応永12(1405)年再建し、応永32(1425)年に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続し、合わせて1棟として国宝に指定された。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。拝殿は本殿と同時に造営され、正面は切妻造、背面は本殿に接続している。
吉備津神社。拝殿。朝拝。毎週月曜日は神職・巫女により朝拝をしているとのこと。偶然、その最後あたりを見学することができた。
内容は大祓詞奏上、明治天皇御製奉唱、敬神生活の綱領唱和。吉備津神社。回廊。天正
7(1579)年再建。全長360mにもおよび、自然の地形そのままに一直線に建てられているので高低差がある。吉備津神社。御釜殿。重文。慶長
17(1612)年鉱山師安原知種が願主となり再建。単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く。鳴釜神事が行われることで有名。鳴釜神事の起源伝説は次のとおり。吉備国の温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという。
釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠の上に入れ、混ぜると、大きなうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれ、音の強弱・長短等で吉凶を占う。
吉備津神社。矢置石。境内の北端にある。矢立の神事が現在でも行われている。吉備津彦命は温羅との戦いのさい、吉備の中山に陣をとり矢を射ると、矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちたという。吉備津彦命が矢を置いた岩を矢置岩とよぶと伝わる。
吉備津神社。社号標。犬養毅の揮毫。境内の北端にある。当地出身の政治家犬養毅は、犬養家の遠祖犬飼健命が大吉備津彦命の随神であったとして当社を崇敬していた。
中山茶臼山古墳へ向かう。
中山茶臼山古墳。吉備の中山の西南側山頂にある前方後円墳。
7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命の墓に治定されて、宮内庁の管理下にあり、立ち入りができない。古墳時代前期の築造とされ、墳長約120 m、後円部径約80m、後円部高約12m、前方部長40m。採集されている埴輪は、最も古い埴輪である都月型とする意見と、後続する型式の埴輪であるという意見がある。また、墳丘も古墳時代前期中頃の奈良県天理市行燈山古墳(伝崇神陵)の2分の1相似形という意見もある。
登り口が分からなかったので、前日見学した古代吉備文化財センターに行き、教示を受けた。
中山茶臼山古墳。古墳付近からの西方向への眺望。平地には弥生時代の墳丘・楯築遺跡、王墓山古墳、造山古墳があり、背後は日差山の山並み。
南側に黒住教本部があるので、立ち寄ってみた。
黒住教本庁(本部事務所)。駐車場から参道方面を眺める。
黒住教は、岡山市今村宮の神官黒住宗忠が江戸時代後期に開いた教派神道で、天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
文化11(1814)年病気のため死を覚悟した黒住宗忠は太陽を拝む中で天照太神と同魂同体となるという霊的体験をして、病気の治癒後、宗教活動を始めた。宗忠の死後、安政3年に神祇管領長上・吉田家より「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年に京都の神楽岡に宗忠神社が創建され、慶応元年には孝明天皇によって勅願所となった。
祭神は「天照大御神」「八百萬神」「教祖宗忠神」の3柱。教団本部は岡山市北区尾上の神道山にある。かつては同区大元の宗忠神社の隣接地に本部を構えていたが現在地に昭和49年に移転した。
境内地約30万㎡(10万坪)の丘陵地に設けられた参道を進む。
黒住教宝物館の
案内板。参道脇にあり、教主奥津城のあとに寄ることにした。藤原啓記念館は入館料が高いので、ここで作品を鑑賞しようと考えた。黒住教。動く参道。エスカレーター。参道に脇に設けられており、これだけ大規模なのは珍しい。
黒住教。大教殿。昭和
49年の大教殿神道山遷座に際し、神道と関連の深い米作の拠り所である農家を基本とした建築をモチーフとして、浦辺鎮太郎が設計した。本殿は伊勢神宮内宮の古材でもって造営されている。大屋根は板状の玄昌石(宮城県産出)が葺かれ、その上には備前焼作家岡山県無形文化財保持者であった故藤原建氏制作献納の備前焼で千木鰹木棟瓦が設えられている。基壇石は石鎚山連峰から運ばれた安山岩が使われている。
黒住教。教祖宗忠神をはじめ代々の教主の奥津城(墓所)。三つの山があり、正面は教祖神と妻の伊久比賣霊神、左右には祖神の父母をはじめとした先祖遠祖、二代から五代までの歴代教主並びにその夫人が祀られている。
黒住教宝物館。黒住教教主の家に伝わる美術品の数々の展示室、教徒であり備前焼作家として人間国宝にも親子して認定された藤原啓、雄と藤原建の記念室、また戦後の京都で八木一夫らと前衛陶芸家集団「走泥社」を結成して世界的に活躍した鈴木治の記念室があり、それぞれ本教に献納された作品を常設展示している。さらに、現代美術家高橋秀や母親が教徒である横尾忠則から献納された作品の数々も陳列している。
予想を超えて素晴らしい美術館だった。鈴木治や高橋秀の現代美術に感動した。入場無料。火曜日が休館日なので運がよかった。学芸員が親切に同行解説してくれた。横尾忠則の「神庭の滝」をモチーフとしたタペストリーは絢爛豪華な迫力があり、近寄ると色彩豊かな布きれの重なりだったことに驚嘆した。また、向井修二の記号インスタレーションが制作されていた。
黒住教本庁一階。高橋秀の作品「神みどり」。
高橋秀は昭和5年広島県新市町(現福山市)生まれ。1966年頃から整形したカンバスを明快な色調のアクリル塗料で着色するスタイルに至る。自然発生的イメージから展開した有機的形態と数種の限られた色彩により、心理的含蓄のある自由な空間イメージを生み出す。抽象的な作品ながら、その印象から「エロスの画家」ともいわれる。
1961年第5回安井賞受賞。1963年から2004年までローマに滞在した。 1979年には友人の版画家池田満寿夫に請われ池田満寿夫原作、監督の映画「エーゲ海に捧ぐ」の美術監督を務めた。2011年より倉敷芸術科学大学名誉教授。
黒住教本庁一階。高橋秀作品を使用したポスター。
直島の現代美術より日本人作家の日本の風土に根付いた現代美術の素晴らしさを味わうことができて眼福であった。
南西へ進み、犬養木堂生家・犬養木堂記念館へ向かう。
旧犬養家住宅(犬養木堂生家)。岡山市北区。重文。主屋と土蔵は江戸時代中期の建築である。
犬養木堂(毅)は安政2(1855)年、大庄屋で儒学者の源左衛門の2男として生まれた。明治10年の西南戦争には記者として従軍、昭和6年に総理大臣となり、翌年の五・一五事件で「話せばわかる」の言葉を残して凶弾に倒れた。
山陽新幹線脇の道路横に駐車場が新設されており、徒歩5分ほどで着いた。
旧犬養家住宅。土蔵と主屋。正直な話、何故重文か分からない。
西に小川を隔てて犬養木堂記念館が併設され、演説レコードの肉声なども聴ける。来館者は意外と多かった。
旧犬養家住宅付近にいたサギ。自然が豊かな地区であった。
北西近くの楯築遺跡へ向かった。