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倉敷市 ストーンサークルのある楯築遺跡 岡山市 全国第4位の巨大古墳・造山古墳

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楯築遺跡。国史跡。入口。倉敷市矢部。平成
26519日(月)。旧犬養家住宅から北西2㎞ほどの丘陵地にある楯築遺跡へ向かった。王墓の丘史跡公園として整備されており、遺跡の北西に駐車場がある。
楯築遺跡は弥生時代後期の弥生墳丘墓で、墳頂の巨大な立石群で知られる。円墳墳頂から北東側と南西部に突出部が築造されており、前方後円墳の形状創出の謎を解く鍵を握るとされ、埴輪のルーツとされる特殊器台の出土や弧帯文が刻まれた旋帯文石(重文)の存在など、古代の吉備勢力を研究するうえで不可欠の遺跡と位置づけられている。
 
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楯築遺跡。案内図。王墓の丘史跡公園のうち北端の楯築地区には楯築遺跡のほか、古墳群も残存している。楯築遺跡は北端にあり、南西の突出部は給水塔が建てられて破壊されてしまった。
墳形は双方中円墳である。直径約43m、高さ45mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持つ。突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。墳頂には木棺を取り囲むように5
個の巨石が立てられている。
主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5mに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われる。出土した木棺は全長約2m・全幅約0.7mで棺の底には30kgもの朱が厚く敷かれていた。木棺は全長3.5m、全幅1.5mの木槨に納められていた。副葬品として鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が出土した。もう1基の埋葬施設は中心埋葬施設の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は無かった。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。ストーンサークルの名残りであろうか。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。注連縄のある後補の石の祠の中にご神体とされる旋帯文石が祀られていた。
 
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楯築遺跡。斜面にも列石がめぐらされている。墳丘は自然地形を利用し、盛り土を行って整えられた。
 
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楯築遺跡。斜面裾部の列石。
 
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楯築遺跡。北東側の突出部も団地造営工事のため破壊され、今ではその名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。
 
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楯築遺跡。旋帯文石の収蔵庫。墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。
二つの小窓が開けられ、見学することができる。
 
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楯築遺跡。旋帯文石。重文。
350㎏の石灰岩系の岩石に人面を刻み、体部全体に帯状の紐を旋回させ束縛したような文様を精緻に彫成したものである。この文様は弥生時代の祭祀儀式に用いられた大形器台と同種で、祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品である。弥生時代社会をみるうえに欠かせない重要な遺品であるとともに、原始工芸の一水準をも示している。
 
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楯築遺跡。旋帯文石。別角度から。
北西の鯉喰神社へ。
 
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鯉喰神社。倉敷市矢部。温羅伝説ゆかりの地であり、傷を負い、鯉に姿を変えて逃げる温羅を、鵜に変身した吉備津彦命が喰いあげて捕らえたという。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。
社殿は元禄14(1701)4月、天保133月に造営し現在に至る。大正64月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀。楯築遺跡の所有・管理者。
 
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鯉喰神社境内からの風景。左端に楯築遺跡のある王墓山の丘陵が民家の間からわずかに眺められる。
北西近くにある造山古墳へ向かった。
 
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造山古墳。岡山市北区。国史跡。駐車場から眺める造山古墳。全長
350m、後円部の高さ31m、平面積約7.8haをもつ前方後円墳で仁徳陵・応神陵・履中陵に次ぐ全国第四位の規模。墳丘上まで上がれる,全国でも唯一の大型前方後円墳として知られている。上・中・下の三段からなり,円筒埴輪列を巡らせていた跡が確認されている。5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。
吉備津神社と同じく15年ほど前に見学した。
 
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造山古墳。前方部の墳丘にある石棺の蓋の破片。前方部は破壊されており、その跡に造山集落の荒神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜式の長持型石棺の身部分で、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺は新庄車塚古墳より運ばれたものという説と後円部から移動したという説がある。
 
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造山古墳。前方部から後円部へ。
 
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造山古墳。後円部から前方部を眺める。
 
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造山古墳。後円部から西側の造り出し部を眺める。
 
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造山古墳。後円部から備中高松城・最上稲荷方面を眺める。戦国時代の高松城水攻めのさいには、毛利方が後円部に山城を築城した。
西近くにある備中国分寺へ向かった。

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