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岡山県総社市 備中国分寺 こうもり塚古墳 作山古墳 総社市埋蔵文化財学習の館 備中国府跡 総社宮 宮山墳墓群 宝福寺 

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備中国分寺五重塔。総社市。重文。平成
26519日(月)。造山古墳から西近くにある備中国分寺へ向かった。
聖武天皇の発願によって創建された備中国分寺の建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建された。境内にそびえる五重塔は、吉備路の代表的な景観となっている。
備中国分寺五重塔は弘化元年(1844)頃に完成し、34.32mの高さがある。この塔は屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで相輪も短く、江戸時代後期の様式を色濃く残し、県内唯一の五重塔でもある。
 
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備中国分寺跡の礎石。創建当時の境内は、東西
160m、南北178mと推定される、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、南門・中門以外の建物の位置は明らかではない。創建当時の礎石は多く残されている。
徒歩で東に10分ほどのこうもり塚古墳へ向かう。
 
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こうもり塚古墳。
6世紀後半に築造された吉備の大首長の墓と考えられる前方後円墳で、今は松林に覆われた自然の丘陵を利用して築造されている。墳長約100m・後円部径約5560mで二段に構築されていたと推定される。墳丘、石室は岡山県最大規模の後期古墳で、全国的にも有数の規模を誇る。
 
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こうもり塚古墳。後円部南側に花崗岩の巨石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は両袖式で全長
19.4m、巨大な石を組み合わせて造られており、岡山県下三大巨石墳の一つに数えられ、全国でも、確認されている横穴式石室の中では第4位の規模を誇る。
 
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こうもり塚古墳。玄室は奥行
7.7m・幅3.61m・高さ3.6m、天井石は3枚の巨石で構成されている。玄室には長さ2.38m・幅1.4m・高さ1.31mの刳抜式家型石棺がある。石棺は貝殻石灰岩製で岡山県井原市浪形山で産出されたものである。発掘調査では土師質亀甲形陶棺残欠や鉄釘が出土した。鉄釘の存在から石棺、陶棺のほかに木棺も埋葬されていたと推定されており、複数の被葬者があったと思われる。単鳳環頭柄頭・大刀・鉄鏃など武具、馬具、ガラス小玉・水晶製切子玉・金環など装飾品、鉄滓、須恵器類なども出土した。
 
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こうもり塚古墳。
石室から外を眺める。羨道の広大さが実感できる。内部は涼しい。
西近くにある作山古墳へ向かい、西側の駐車場に駐車。
 
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作山古墳。国史跡。説明板写真・図面。作山古墳は、全国第
9位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円墳で、全長286m、後円部径約174m・高さ約24m、前方部前面幅約174m・高さ約23m岡山市の造山古墳(全国第4位、岡山県下最大)に次いで、5世紀中ごろに築造されたとされる。
 丘陵を三段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在草と木で覆われ一見山にしか見ないが、築造当時は平らな面に5千本以上もの埴輪が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められており、南方に存在したと推定されている古代山陽道に先行する道を行き交う人々に、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われる。
作山古墳は畿内の大王墓と異なり、後円部は正円ではなくだ円形で、前方部も台形状の突出がみられるなど、不整な形態をしている。また、前方部の前面には丘陵の一部が、取り除かれないまま残されていることから、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないという見方もある。
 
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作山古墳。墳丘上。天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる最大級の古墳だが、登ってみても墳丘の形ははっきりしない。
12月に下草刈りをするころは古墳の形がよく分かるという。
備中国府跡へ行く前に、その500mほど東に総社市埋蔵文化財学習の館で情報を入手しようと向かった。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。こうもり塚古墳出土土器。総社市南溝手にあり、土・日・祝休館、入館無料。総社市内から出土した古代吉備全般に関する遺物等を展示。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。鬼ノ城の模型。展示室への廊下には全国の古代山城が写真とともに紹介されており、ほとんど見学済みなので懐かしかった。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。鬼ノ城の模型。女性職員に尋ねられたので、旅行の目的・予定などを話した。日生諸島大多府島への航路はやはりよく揺れるらしい。備中国府跡の大体の位置を確認。鬼ノ城は市内からもよく見える、三輪・宮山墳墓群の三笠山古墳の比高差が半端ではないなどの話を聞き、展示概要の小冊子も頂いて、備中国府跡へ向かった。
 
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伝備中国府跡。総社市金井戸。備中国は、
997郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽郡に置かれたと記録されている。国府が置かれた場所については定かではないが、「国府」「国府西」「北国府」などの小字名がみられる金井戸の地の中でも、「御所」の地名が残るこの場所が、有力な候補地となっている。
 
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伝備中国府跡付近から北に鬼ノ城を眺める。
50mほど北へ歩くと、北の山上に鬼ノ城の城壁がはっきりと見えた。鬼ノ城へは翌朝から見学した。
 
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総社宮。総社の地名の由来となったといわれる社。古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はその
1つで備中国の総社にあたる。国司が力を失うとともに多くの国々で総社は廃れていったが、当社は現代までその姿を維持する全国的にも珍しいものである。現在、祭られている祭神の数や社殿規模などでは全国の総社で最大である。備中の総社は324社の神を合祀している。
 
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総社宮。神池・神島。前庭の三島式庭園は、古代様式を今に伝え、長い回廊が美しい影を水面に映している。三ッの島が品の型に配島されていて、中の一つには磐境的石組遺構が残っているという。吉備系の配島数は本来五島または七島とされる。
南約1.5㎞の三輪にある宮山墳墓群へ向かった。
 
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宮山墳墓群・三輪山古墳群。案内図。宮山墳墓群・三輪山古墳群は三輪山の西端にある弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群で,箱式石棺・土壙墓・特殊器台棺等多様な埋葬を伴う集団墓と,前方後円墳状の墳丘墓、東方の三輪山古墳群から構成されている。
三輪山の南西端にある百射山神社は式内社の古社である。神社には駐車場がある。
 
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宮山墳墓群。西端の集団墓群。
 
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宮山弥生墳丘墓。中央の「宮山墳墓群」と書かれた碑の奥側に墳墓群の中心となる宮山弥生墳丘墓がある。手前が前方部、奥が後円部となる。盛土で造られた墳丘は全長
38m、直径23m、高さ3mの円丘部に地山を削りだした低い方形部がついた形で、前方後円墳の原型ではないかと評価されている。
 
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宮山弥生墳丘墓。墳丘墓の後円部には竪穴式石室が築かれ、石室内からは中国製の鏡、直刀、剣、銅の矢じり、鉄の矢じり、ガラス小玉などが出土した。
 
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宮山弥生墳丘墓。後円部。この墳丘墓に立てられていたと思われる特殊器台と同様の文様をもつ特殊器台が、最古級の古墳とされる箸墓古墳をはじめ奈良県の古い古墳から出土している。弥生時代の終わりごろ、吉備の葬送儀礼に使用された特殊器台は、古墳に立て並べる円筒埴輪へと変化していったことは、古墳時代の葬送儀礼の成立に吉備が大きく関わったことを示す。
 
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三輪山古墳群。三笠山古墳。後円部から前方部を見る。三輪山の尾根を奥に進むと、宮山墳丘墓の後継者のものと考えられる2基の前方後円墳が並んでいる。全長
55mの天望台古墳と全長70mの三笠山古墳で、4世紀後半頃から系統的に築かれた首長墳と考えられ、三笠山古墳は5世紀初めの築造とされる。
 
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三輪山古墳群。三笠山古墳。後円部を見上げる。天望台古墳と三笠山古墳は継続して築造されたが、その後、前方後円墳はこの地域では造られていない。
周遊路を下り、百射山神社へ戻る。本日の宿を道の駅「かよう」に予定していたので、その途中にある雪舟修行の寺・宝福寺へ向かった。
 
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宝福寺。方丈。総社市井尻野。宝福寺は臨済宗東福寺派の中本山。画聖雪舟が幼い頃修行した中国地方屈指の名刹。
備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は修行もそこそこに絵ばかり描いていた。修行に身を入れさせようと禅師は雪舟を方丈の柱に縛り付けた。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであった。以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなったといわれている。
天正3(1575)年の備中兵乱のさい、その方丈は焼失し、雪舟ゆかりのものは残っていない。
 
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宝福寺。仏殿と池。
道の駅「かよう」へ向かった。

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