笠岡港。笠岡市。平成
26年5月21日(水)。道の駅「かさおか」で起床。本日はまず、笠岡諸島の真鍋島見学を予定し、8時10分発の旅客船に乗船するため笠岡港へ向かった。北へ進んで、港近くに無料駐車場を見つけて駐車し、港の待合所へ着いた。様子がおかしいので、居合わせた男性に尋ねると、この港ではなく、国道2号線のトンネルを北に越えた別の港だとのこと。徒歩でトンネルを歩いて2号線から左折すると。港に着いた。正式には住吉港といい、先ほどの港は伏越港で、いずれも笠岡港として括られている。行程は、笠岡港8時10分発、真鍋島本浦港9時5分着、本浦港11時30分発笠岡港12時14分着で、運賃は往路が旅客船1020円、復路が高速船1760円。
笠岡諸島は、岡山県の西端、笠岡市に属し、高島・白石島・北木島・真鍋島・小飛島・大飛島・六島の7島で構成されている。諸島の人口は2,166人で、北木島(1,027人)と白石島(581人)が中心である。
待合所は古びたいかにも離島向けといった建物。20人ほどが乗船し、8時10分に出航した。
カブトガニ博物館を通りすぎる。
客室外の有蓋開放室。高島への入港前。
高島港。
北木島港。
北木島。
真鍋島本浦港へ到着。
真鍋島の観光案内図。真鍋中学校は港の南、城跡は中央部と北東端の
2か所、石塔は北部と大体分かる。まず、真鍋中学校へ。本来は西からが正門だが、東から裏口入学する格好になり、給食室の横を通って、校庭に入った。
笠岡市立真鍋中学校。夏目雅子主演映画「瀬戸内少年野球団」のロケ地として有名。
通常の校舎とは雰囲気が違う。窓が小さいのは、海辺の強風を考慮してのことか。壁が黒いのが印象的。
真鍋中学校。校庭の脇に「岡山県近代和風建築総合調査報告書」の抜き刷りが掲示してあった。木造二階建、切妻造、セメント瓦葺。昭和
24年建築。昭和22年真鍋村立中学校として開校。校舎は昭和24年4月24日に落成式挙行。多少の改築はあるが、ほぼ建設時のまま、現在も校舎として使用。笠岡諸島7島の有人島はどの島も面積が小さく、平地面が少ない。真鍋島も万葉の歌にも名前があるほど古くから知られているが、人口が少ない半農半漁の島である。戦後という経済的にも困難な時、少ない平地を切り開き、石垣を積み上げて校地を確保するなど大変な苦労が偲ばれる。高さ3.2mの石垣擁壁を積み上げ、その頂部に石を敷いて土台とした。1階は桁行42m、梁行8m、2階は38m×8mの規模で、外壁は南京下見板張。柱材はヒノキ、梁材はマツ。設計者・施工者ともに不明であるが、地元の大工等が関わったものと考えられる。真鍋島の経済的交流を考えれば、四国の多度津周辺から建材を入れたのではないかと思われる。
真鍋中学校。校地平面図。「岡山県近代和風建築総合調査報告書」所載。
真鍋中学校。小学校の門柱の横には二宮金次郎像が置かれている。
真鍋城跡へ向かう。
マンホールの蓋。デザインはカブトガニ。
本浦港東端の分岐。正面の山に上り坂の道が見える。島の中央部を通る稜線へ至る遊歩道を登る。
本浦港東端の峠道途中から眺める本浦港。
真鍋城跡手前の巨石。島の中央部を通る遊歩道を進むと城跡に関わると思われる巨石が現れる。門跡ないし防御施設か。ここから
1分ほど歩くと主郭に出る。真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。(標高
84m)。真鍋島では平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の島々をことごとく支配下に治めていたという。真鍋水軍の本拠地であった真鍋島の東部には、中世の城跡が2カ所残っている。地元では島の東端の山を「しろやま」、その南西にある山を「じょうやま」と呼ぶ。島の最高峰である東側の城山にあった城が、本城といわれ、より規模の大きい城跡があったと思われるが、明治以後の採掘で頂上は原形を失っている。真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。山頂には平坦面があり、周囲を石垣が巡る。今日では真鍋島
88ヶ所の12番と13番の石仏がまつられている。真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。石垣。主郭からの眺望はない。
遊歩道を東へ進む。
遊歩道の道標。遊歩道は踏み跡はあるが、下草が多い。畑が現れると、右に海を眺める交差点に出た。東端の城跡は直進である。
真鍋城跡。「しろやま」の城跡。主郭。東端の島の最高地点(標高
127m)にある。周囲への見晴が良い。真鍋水軍の版図は、「全盛期には、その領土は塩飽、笠岡諸島はもとより、北は備後蓑島、南は讃岐国の一部、東は備前長島、西は伊予の伊吹島に及んだ。」と伝えられており、毛利氏と織田信長が対抗したとき、真鍋水軍は毛利方に付いた。石山本願寺攻略の時、信長から荒木摂津守(村重)に宛てた書状に。真鍋水軍に警戒するようにとの文言が残っている。真鍋城跡。「しろやま」の城跡。主郭。真鍋城終焉の哀話が伝わっている。真鍋城では、代々、三層の本丸の最上層に白蛇を飼っており、この白蛇に餌をやることは城主の妻の勤めであった。最後の真鍋城主の奥方は讃岐高松の松平家の姫君であったが、ある日、いつものように
白蛇に餌をやりに行った時、閉じこめられている蛇と我が身を重ねたのか、可哀そうになり、窓を開いてやった。白蛇は窓から抜け出ると、真鍋島の沖あいにある大島に逃げていった。ところが、まもなく、その白蛇は、大島で死んでいるのが見つかった。それからのち真鍋家は不幸が続き、城主夫妻も病没してしまい、ついに真鍋家は城を出て民間に下り帰農したという。真鍋城跡。「しろやま」の城跡。東方向への眺望。佐柳島、多度津方面。
水軍としては絶好のの物見台であった。
真鍋城跡。「しろやま」の城跡。西方向への眺望。中央部に西の真鍋城跡。その右側に本浦港。
奥の左に六島、右に大飛島・小飛島。
真鍋城跡。「しろやま」の城跡。北西方向への眺望。本浦港。北木島。中央奥は走島、沼隈半島(広島県福山市)方面。
真鍋城跡。「しろやま」の城跡。南方面への眺望。遠く香川県三豊市詫間町、粟島方面。
瀬戸内の水上交通の要衝であることが分かる。
真鍋城跡。「しろやま」の城跡入口。花を栽培しているという
80代の女性。南方面の眺望を尋ねた。大阪から20年ほど前に来たといい、夫婦で農業をしているという。北の岩坪集落へ下る。途中の墓地にあるという五輪石塔群を捜す。分かりにくかった。
五輪石塔群。平安時代末期から室町時代にいたる各時期の形式を備えており、真鍋氏一門代々の墓と伝えられている。もとは62基を数えたという。中央の大きなものを、ヱ門大夫の墓と呼ぶ。これは、室町時代の領主・真鍋右衛門大夫貞友の墓という説がある。
本浦港。岩坪集落の坂道を下り、海岸道を西へ
15分ほど歩くと本浦港が見えてきた。本浦港。待合所。味のある建物。
本浦港。待合所。内部。児童・生徒が描いた絵が展示されている。「鶴瓶の家族に乾杯」の宣伝ポスターは初めて見た。
本浦港。
11時30分発笠岡港行きの高速船。遠ざかる真鍋島。左が東端の「しろやま」、その右・中央部に「じょうやま」がある。
笠岡港には12時14分着。このあと、笠岡市立竹喬美術館や倉敷市真備町の横溝正史疎開宅などを見学。