笠岡市井笠鉄道記念館。笠岡市山口。平成
26年5月22日(木)。道の駅「かさおか」から北へ向かい、北条早雲が生まれた井原市の高越城跡、矢掛宿、吉備真備関連の史跡などを見学。井笠鉄道は軌間762mmの軽便鉄道として設立され、大正2(1913)年11月17日に本線笠岡・井原間が開業した。その後、矢掛支線が開通、神辺支線を買収し、総延長37㎞となったが、昭和42年に両支線を廃止、昭和46(1971)年3月31日に井笠本線も廃止された。現在の井原鉄道は井笠鉄道の道床を利用している。
井笠鉄道記念館は井笠鉄道により昭和56年に設置され、井笠鉄道にゆかりの資料を保存・展示してきた。平成14年には産業考古学会の推薦産業遺産に認定された。しかし平成24年11月に井笠鉄道が事業を清算したため地元の新山地区自治会が記念館の管理を引き受けることになり、記念館の資産を笠岡市が買い取り、平成26年3月30日にリニューアルオープンした。笠岡市と新山地区自治会が共同で運営している。
記念館の建物は、井笠鉄道が開業した大正2年に建築された旧新山駅の駅舎である。横の県道は旧井笠鉄道の線路敷跡。
井笠鉄道の社紋プレート。記念館の展示。
井笠鉄道の票券閉塞方式の通票(スタフ)。右側先端が丸、三角、四角に区別されている。タブレット方式が多いが、スタフ方式は珍しい。
開業時の通券箱。通票と通券を併用していた。かなり珍しい。
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号機関車の銘板。1913年の井原-笠岡間19.4kmの開業に備え、機関車3両が同年10月にドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル(Orensteim & Koppel-Arthur Koppel A.-G.)社で製造された。これらは井原笠岡軽便鉄道の資材調達を請け負った三井物産からコッペル社の日本総代理店であった東京のオットー・ライメルス商会(Otto Reimers & Co.)を経由して発注されており、製造銘板下部には日本における取り扱い代理店としての同商会の名が明記されていた。1
号機関車。1913年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル社(ドイツ)製の蒸気機関車。鉄道線全廃翌々年の1973年から5年間、西武山口線で「おとぎ列車」の牽引に使用されていた。1
号機関車。運転整備重量9.14t、軸距1,400mm、出力50PSのB型飽和式単式2気筒サイド・ウェルタンク機。転車台は鬮場(くじば)駅のものを移転。
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号機関車。開業以来特に大きな不具合も発生せず、1961年の除籍まで半世紀近くに渡って井笠鉄道の主力機関車としてほとんど改造されることもないまま、重用され続けた。1
号機関車。運転室。弁装置は大型機関車で一般的なワルシャート式であり、簡易なコッペル式や複雑なアラン式などを避けて堅実かつ動作の確実な機構を選択している。シリンダは煙突よりやや後退した位置に取り付けられており、また加減弁はこの種のコッペル社製小型機関車としては珍しく大型の蒸気ドーム内に内蔵されているため、左右各2本の蒸気管がSカーブを描いてシリンダと煙室を結んでいる。
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1。木造客車。1913年、日本車輌製。ホハ
1。内部。定員50人、座席26人。立入はできない。ホワフ
1。木造貨車。1914年、日本車輌製。井笠鉄道の保存車両の中で唯一保存されている貨車。井笠鉄道は多いときには47両の貨物列車を保有し、沿線で収穫した農産物などを輸送していた。客車と貨車の連結器。ピン・リンク式連結器。リンクとピンによって連結する連結器で、先端に穴が空いた受け板があり、リンクを穴に差し込み、落とし込みピンを入れて連結する。主に黎明期のアメリカの鉄道や、軽便鉄道、産業鉄道などで用いられた簡易型の連結器で、鎖やロープなどを除けばもっとも簡素な連結器である。日本の営業路線でこのタイプの連結器が現存するのは黒部峡谷鉄道のみである。
展示室で、昭和46年3月31日付の硬券のコピー券を貰って、井原市の高越城跡へ向かった。
高越城跡。井原市東荏原町・神代町。高越城は戦国大名家・後北条氏の初代北条早雲(伊勢
盛時)が生まれ育った城である。北条早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が通説とされてきたが、近年の研究で室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする備中荏原荘の領主伊勢氏の伊勢盛時とする説が確定的になった。近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表し、1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表して確定的となった。
生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある。
登城口へ行くための道標は整備されており、荏原小学校東の道を北進し、東方向へ山間部に入り、交差点から南進すると、広大な駐車場に着く。駐車場には北条五代観光推進協議会などの資料が置いてある。
高越城案内図。駐車場から舗装道を歩き、途中から左の坂道を登る。城跡は本丸も含めて
5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめている。高越城跡。冠木門のある坂道を登る。
高越城跡。本丸跡。公園として整備されすぎていて、雰囲気に乏しい。
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えられる。戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は享禄4(1432)年伊勢盛定の子としてこの地に生まれた新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれる。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国の守護今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となった。
備中伊勢氏は、その後、後裔の貞信の代に至った天文9~10(1540~41)年、尼子氏の南下攻勢政策を阻止し、又五郎は永禄9(1566)年に毛利氏に従って、出雲富田城攻めに参加し、当地で戦死を遂げたといわれる。備中伊勢氏が没落したのは、その後と思われるが、天正9(1581)年からは毛利氏の持城となり、慶長5(1600)年頃に廃城となった。
高越城跡から南の眺望。高越城は備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぎ、山陽道と小田川を足下に見下ろして、東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができた。
高越城跡から西の眺望。
高越城は山陽道を東上する軍勢だけでなく瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地であった。このあと、山陽道の宿場町矢掛へ向かった。