矢筈山(矢筈城跡)登山口。岡山県津山市加茂町。平成26年5月25日(日)。
鏡野町の泉山に登頂後、矢筈山(矢筈城跡)を登るため、笠菅峠登山口から基幹林道を東進し、22世紀の森を経て加茂町へと向かい、11時過ぎに知和地区に到着した。知和駅を過ぎても西登山口の千磐神社が見当らないので、北の脇道に入り、民家で尋ねると、すぐそこだと教えてくれた。県道の南に広い駐車場があったが、千磐神社下の駐車場に駐車した。矢筈城跡はヤマケイの分県登山ガイドで矢筈山として紹介される登山対象の山であり、ネットで事前に調べると、マムシが出る登山道ということなので、登山靴に履き替えた。また、登山道は砂混じりで下山時は滑り易いので、登山靴は有効であった。西の千磐神社と北の美作河井駅・若宮神社を縦走するコースがベストだが、時間がないので、千磐神社からの往復とし、千磐神社から山頂の本丸まで1時間12分、往復所要時間は2時間40分だった。
矢筈城想像図。駐車場および山頂に掲示。
矢筈城(高山城)は、南北朝以来因幡・美作の両国に勢力を有した草刈氏の居城で、天文元年(1532)から翌2年にかけて、11代草刈衡継(ひらつぐ)が矢筈山(標高756m)に築いた県内最大ともいわれる中世山城として築城以来一度も落城することのなかった難攻不落の堅城として知られている。
草刈氏は初代城主草刈衡継のあと景継、重継と続く。「作州半国主」とよばれ、所領2万石とも3万石ともいわれた三代城主の草刈重継は、毛利氏に属して宇喜多氏や羽柴秀吉などからたびたび攻撃を受け、その都度撃退したが、毛利氏の要請によって天正12年(1584)に矢筈城から退去し、その後廃城となったと考えられている。
矢筈城は、比高差426mの要害の地に築かれ、東西1600m、南北500mの壮大な規模を誇る。東郭群(古城)は山頂(大筈)の本丸・二の丸・三の丸を中心に北の土蔵郭・馬場などからなり、西郭群(新城)は山上に御殿が築かれた石垣段や成興寺丸・西尾根曲輪などからなる。矢筈山北西麓の大ヶ原には「内構」と呼ばれる城主草刈氏の大規模な居館跡がある。また矢筈山の北側を西へ流れる加茂川が天然の濠となっていた。
矢筈山(矢筈城跡)登山口。千磐神社。神社には、矢筈城跡保存会作成の登山マップとパンフレットが置いてあり、ありがたく頂戴した。詳細な縄張り図も記載され、これほど立派なおもてなしはない。地元の熱意を感じた。矢筈城跡保存会は会報『矢筈山』の発行やパンフレットの作成、登山会の実施、説明看板や遺構表示板の設置、登山道の草刈作業などを行い、城跡の保存整備と顕彰活動に取り組んでいるという。
11時49分に千磐神社を出発。
矢筈城跡。大岩。堀切から稜線尾根に出て、ひたすら登って行くと
30分余りで大岩に着く。ここからが、城域とされ、西郭群の西端にあたる。矢筈城跡。西郭群の石垣。各所に石垣が残存している。
とりあえず、山頂の本丸へ急ぐ。
矢筈城跡。山頂。本丸。東西
15間、南北6間。山頂部分からはみだして四方へ懸け造りをしなかればならない大規模な建物があったと伝わる。矢筈城跡。山頂。本丸。右奥に薄らと見えるのが、那岐山のようだ。
8年前に登っている。矢筈山の大筈の部分に当たるが、かなり削平されている。戦国時代、因幡・美作地方に勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷の後裔で、陸奥国斯波郡草刈郷の地頭職を得て草刈氏と名乗ったと伝わる。
草刈貞継は、延元元年(1336)足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、備前の三石城にとどまり新田義貞の追討軍を防ぎ、その戦功により、暦応元年(1338)因幡国智頭郡を賜わり、淀山城(智頭町)を築いて、そこに拠ったという。その後、貞継の子氏継の時代までに美作国苫東郡加茂郷および苫西郡などの地頭職を賜ったといい、美作にも所領を拡大した。
草刈景継の代には智頭郡の大半を押領し、播磨の赤松氏、出雲の尼子氏とも戦った。永正5(1508)年、大内義興が上洛の陣を起こすと景継も従軍した。
景継の子草刈衝継は、天文元年(1532)美作国加茂郷に高山城(矢筈城)を築き、本拠を因幡の淀山城から移したという。衝継は大内氏・毛利氏に与して、因幡では尼子氏と、美作では進出してきた備前の浦上村宗・宗景父子と戦い、美作のうち苫北・苫西を支配下に治めた。
衝継は天文22年尼子氏に高山城を包囲攻撃されたが退けた。尼子氏が衰退すると、因幡では毛利氏と組んだ武田高信が台頭して美作へ侵攻し、衝継を継いだ景継と対立する。
永禄12年(1569)、再興を図る尼子勝久と山中鹿之助は因幡の山名豊国と結んで毛利方の武田高信を攻め、豊国を鳥取城主とし、尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙した。毛利氏は草刈景継と武田高信を仲裁したが、和議の条件が草刈氏に不利であったため景継は毛利氏に不満を抱いた。天正2年(1574)、織田信長の密使として山中鹿之助が矢筈城を訪ねてくると、景継は織田氏に転じた。信長は誓文書を作成し景継のもとへ送らせたが、使者が毛利方に捕えられ、景継宛の朱印状も押さえられた。小早川隆景は、景継の家来を呼んで事態の収拾を命じ、景継は切腹して自害、矢筈城の山麓に葬られた。景継の自害後は、弟の重継が継いで毛利氏に属した。
宇喜多直家は毛利氏と結んで、三村元親を備中松山城に滅ぼし、ついで美作西部の高田(勝山)城主三浦貞弘を滅ぼした。直家が天正6年(1578)織田信長方に寝返ると。美作の国衆は美作東部の三星城主後藤勝基を盟主に結束し宇喜多勢と毛利氏旗下の後藤勢は随所で合戦を展開。吉野郡では宇喜多方の新免宗貫と、毛利方の草刈重継が合戦を繰り返した。
天正10年本能寺の変のあと、毛利・羽柴の間に和睦が成立、高梁川以西の美作国は宇喜多秀家の所領となった。その結果、草刈重継の居城高山城や所領も宇喜多領となったが、重継はこれを不満として宇喜多氏に加担する美作の国衆たちと激戦を繰り返した。しかし、天正11年12月、毛利輝元から退城勧告の書状が届くと、重継は高山城を退去して父祖の地を去った。以後、草刈氏は毛利氏に仕え、萩藩士として続いた。
矢筈城跡。山頂本丸からの眺望。北麓を流れる加茂川に沿って東に進むと、草刈氏の所領があった鳥取県智頭町は近い。北には支流の阿波川沿いに集落が連なっている。
写真を撮りながら、往路を下って行く。
矢筈城跡。三の丸。上部には天然の岩盤を利用した
L字型の土塁が残る。矢筈城跡。三の丸。北の崖側には岩盤が並んでいる。
矢筈城跡。三重堀切。西郭群の東端にある。二重堀切はよくあるが、三重とは珍しい。
矢筈城跡。西郭群。石垣段。西郭群の東端。
矢筈城跡。西郭群。石垣段。石垣。
矢筈城跡。西郭群。石垣段。磐座と祭壇。
矢筈城跡。西郭群。石垣段北の下部に城主居館の御殿と客殿が設けられていた。
矢筈城跡。西郭群。櫓台と狼煙場。
矢筈城跡。西郭群。櫓台から北の眺望。
矢筈城跡。西郭群。虎口。櫓台の西にある。
矢筈城跡。西郭群。虎口付近。
矢筈城跡。西郭群。成興寺丸への入口から西尾根方向。
矢筈城跡。西郭群。成興寺丸への入口付近から北西方向への眺望。知和地区の民家が見える。
大岩を経て下る途中で、マムシ1匹に遭遇。
14時30分頃、千磐神社に帰着。地元の人が枝刈りをしていた。
転車台など鉄道遺産が残る美作河井駅へ向かう。
矢筈山。城主草刈氏の大規模な居館跡がある北西麓の大ヶ原あたりから眺める矢筈山。
矢筈とは矢の最後部のことで、弦に嵌め込み固定するためにV字状に切込みされた部分のこと。高校時代は弓道部に所属していたので、懐かしい言葉だ。山の用語でいえば、ごく近接した双耳峰に相当する。全国にも矢筈山とよばれる形の山は多い。
矢筈山。県道から美作河井駅へ向かう橋の上からの眺望。
このあと、美作河井駅、津山三十人殺しの現場である加茂町行重地区、美作滝尾駅を見学。