八木城跡。国史跡。登城口。養父市八鹿町八木。平成26年6月2日(月)。
八木城跡は、八木川の中流域に立地する山城で、石城とよばれる織豊期の山城と土城とよばれる中世の山城の二つで構成されている。
八木土城は平安末期に閉伊頼国がこの地を与えられて築城したと伝わる。鎌倉時代初期八鹿町朝倉に住した日下部一族但馬朝倉氏の朝倉高清が土城の城主閉伊行光と戦い勝利をして、三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれ、以来15代豊信まで約400年にわたり一大勢力を保持した。
室町時代になると、八木氏は但馬守護山名氏の傘下に入り、同族で竹田城主の太田垣氏や垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。
しかし、戦国時代織田信長の命を受け中国の毛利攻略に向かった羽柴秀吉は姫路城を拠点として先ず毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定する。天正5年(1577)に行われた羽柴秀長の第1次但馬攻めで、城主の八木豊信は秀長に降伏し。羽柴秀吉の部下になった。天正8年(1580)には八木豊信は鳥取若桜城に移され、八木家の支配は終わった。
天正13年(1585)秀吉の配下であった別所重棟が新たに12000石の大名として八木城に入り、子吉治の二代わずか十五年の間在城した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに西軍に属した吉治は敗戦で所領を没収され、八木城は廃城となった。なお、八木豊信と別所吉治の子孫はいずれも幕府旗本として続いた。
但馬朝倉氏の居城朝倉城は八木城の東約6㎞にあり、日下部一族の氏神である赤淵神社は朝倉城の南東約10㎞に位置している。日下部一族のうち最有力であったのは但馬朝倉氏であったが、早くに歴史から姿を消し、庶家の越前朝倉氏が有力大名へと成長した。
別所氏が楽市楽座を奨励して、整備したのが八木の城下町で、現在の上八木、中八木、下八木を含む東西800m、
南北では最大300mの範囲である。北側に八木城、東側には今滝寺川、そして南側を流れる八木川を城下町を守る外堀として利用した総構えという防御方法をとっていた。但馬国養父郡を治める経済の中心となった政治都市、さらに秀吉政権から任命された大名が住む軍事都市であった。中央には東西に一本街路と呼ぶ大通り(山陰道)があり、道路は「折れ」「クランク」で見通しのきかないように工夫し、町屋が配置された。その上側には、現在は西方寺・永照寺・柳谷寺・実行寺などの寺院があり、付近には寺院や武家屋敷があったと思われる。別所氏吉治は関ケ原の合戦で西軍に属したため慶長6年(1601)に丹波由良(兵庫県丹波市氷上町)に移され、八木城と城下町は廃止となった。
養父市八鹿の道の駅「但馬蔵」から国道9号線を3㎞ほど西進し、八木城跡への推奨駐車場がある下八木集会場へ左折しようとしたら、国道への右折車がいて、進入できなかったので、仕方なく西進し、信号から左折して、道脇に小川が流れる城下道の旧道に入り、東進した。登校中の児童の横を進むと、北側に下八木集会場の駐車場があった。5・6台ほどの広さがあり、北側に駐車した。すぐ東に城の案内所があるとのことだったが、閉鎖中のようだった。なお、帰ってくると、車の窓に立派なパンフレット2種が挿し込まれていたので、見学者の存在には注意が払われている。
八木城跡。案内図。山城への登山道は3本あるが、今滝寺への道を110mほど
入った所から尾根筋にそって登る下八木ルートが一般的である。中八木・上八木ルートは踏み跡が薄い印象があった。下八木ルートの距離は本丸まで約1㎞で、看板地点から35分ほどで本丸に到着し、土城も合せて1時間半ほどで看板地点へ帰った。八木城跡。三の丸。登城口から登城道を登ると東屋があり、中八木コースの道が下に下っている。さらに進むと、台地状の崖下に秋葉さまがある。その横からさらに登ると三の丸に着く。
三の丸は八木城で最も大きな曲輪で、長さ66m、最大幅は17mある。
八木城跡は、西から東へ伸びる細い尾根上に築かれた山城で、東西340m、南北260mに広がる。標高330mの最も高い位置に本丸を作り、そこから東側に7段の曲輪を作った。これが登山道に直接とりつく主尾根になる。一方、北側にも6段、さらに南側にも9段の曲輪があり、放射状に曲輪が広がる縄張りは16世紀の戦国期に発達し、山名氏とその四天王クラスの城など、大規模な城にみられる。但馬では天正3年ごろから8年にかけて多く竪掘群をめぐらせて城郭を防御する山城が増えたが、八木城には竪掘を造っていない。
八木城跡。本丸。八木氏時代には本丸に石垣はなく、別所氏が八木城の中心部を現在のような石垣に改修した。このため本丸とその周辺部は、豊臣時代に改修された織豊系城郭の特徴を示している。
本丸の南側には高さ9.3m、長さ40mにわたって山石を荒割りした石材により9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術をみることができる。
八木城跡。本丸。八木城の本丸の石垣には3つの特徴がある。第1に中央で石垣が「く」の字に折れていること、第2に高石垣にそって幅訳3.5m、
内側の高さ1.3mの石塁があること、第3に長さ14.9m、幅9.8m、高さ8.3mの櫓台石垣が付属することである。八木城跡。本丸。虎口付近。山石を荒割りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術をみることができる。
八木城跡。本丸。本丸は長軸47m、短軸23m
のいびつな長方形をしている。本丸の最も奥まった所に2段の平坦地があり、天守台と思われる。
八木城跡。本丸。天守台付近。並んでいるのは八木一族の供養塔という。
八木城跡。本丸。南下の石垣を見下ろす。
土城への通路となっている。
八木城跡。本丸。石垣を土城方向から眺める。
八木城跡。土城。八木城から200mほど尾根を
奥に登ったところに土城がある。八木土城は細い尾根上に一直線に曲輪が続く。きますので、南北朝時代に起源をもつ城郭でしょう。標高409mの高所に主郭をおき、全長は370mある。いくつかの曲輪には高さ1.0~1.5mの土塁が作られており、但馬の中世城郭では例を見ない大きなもので、これらは織豊期の改修だと考えられている。
八木城跡。土城。主郭から下へ。主郭は16m×12mの規模で、
その縁に低い土塁を作っている。八木氏が城主となって完成した戦国時代の城郭は、八木土城と八木城が一連の城郭として機能したものであり、その中心部が土城だという。つまり、土城の主郭が天正5年の八木氏の八木城時代には2城の両方を押さえた主郭であったと見られる。
土城には主郭を含めて看板類は設置されていないのが残念。
往路を下山し、下八木集会所から養父市大屋町筏の日本の滝百選「天滝」へ向かう。
天滝。日本の滝百選。養父市大屋町筏。兵庫県最高峰の氷ノ山を源とする落差98mの
豪快な滝である。渓谷入口の駐車場から、渓流沿いの登山道を約1.2kmの往復となり、往路24分、復路16分を要した。まさに登山道で、汗だくになる。天滝までには、夫婦滝、鼓ヶ滝、糸滝などの滝群があり、最後の階段を登ると天瀧三社大権現に出て、その横に展望所がある。天滝。下部。氷ノ山後山那岐山国定公園の区域にあって、原生林に覆われた渓谷沿いの遊歩道は「森林浴の森100選」に
選定されている。天から降り注ぐかのような荘厳さからその名が付けられたとされる。弘法大師所縁とする伝承が残り、「大和長谷寺縁起」や「役の行者本記」などにもその名を残す。1996年度のNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」のオープニングに登場した滝でもある。
天滝。天瀧三社大権現。
往復中は、登山スタイルの女性一人に出会っただけで、ひっそりとしていた。
汗をかいたので、八木の西にある関宮温泉「万灯の湯」へ入浴。12時前だったので100円割引の500円。
ゆったりしたあと、丹波市の黒井へ向かった。