黒井城跡。国史跡。丹波市春日町。南麓の丹波市役所春日分所付近から。
平成26年6月2日(月)。黒井城跡は典型的な戦国時代の山城跡で、竹田城跡と同じく雲海の城として知られる。
黒井城では天正3年(1575)と天正7年の2度にわたり、黒井城城主赤井(荻野)直正らと明智光秀の軍勢が攻城戦を繰り広げた。黒井城落城をもって丹波が織田方により平定された歴史の舞台である。
黒井の町並みのすぐ北側にそびえる黒井城跡は、猪ノ口山にある山城で、標高356mの頂上の本城部分を含め、山全体が巨大要塞となっており、広さは周囲8kmにも及ぶ。山中の至るところで曲輪跡や土塁、堀切りなど、戦国時代の遺構が残る。
黒井城は建武2年(1335)に春日部荘を領した赤松貞範(則村の次男)が山頂に砦を築いたことに始まるという。応仁・文明の乱(1467~77年)頃からは荻野氏が居城した。天文11年(1542)荻野氏の同族赤井直正は荻野十八人衆の盟主として請われ荻野姓を称した。天文23年(1554)直正は叔父の黒井城城主荻野秋清を殺害して黒井城主となり、「悪右衛門」と号し、勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた。
荻野直正は永禄11年(1568)頃には、多紀郡を除く丹波国を支配し、戦国大名となった。この頃に黒井城に大改修が加えられたとみられる。
織田信長が台頭すると、元亀元年(1570)本家の赤井忠家と共に信長に降るが、翌2年に氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める此隅山城・竹田城を占拠。祐豊は信長に救援を頼んだことから、信長の丹波侵攻を招くこととなった。
天正3年(1575)織田信長は明智光秀に赤井直正討伐を名目に丹波攻略を命じた。光秀は八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆を味方につけ黒井城を包囲した。翌年1月15日、かねての密約どおり波多野秀治が赤井方に寝返って、光秀の陣を急襲すると、光秀率いる織田軍は総崩れとなり、光秀は京へ逃げ帰った。これは後世「赤井の呼び込み戦法」とよばれる。
赤井直正は毛利氏の提唱する「三道併進策」に呼応し、反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結んで対抗した。
明智光秀は天正5年(1577)10月から、第二次丹波征討戦を開始すした。天正6年3月に八上城と氷上城の包囲を完成させた。この時に赤井直正が3月9日に病没し、丹波国人衆は再び光秀に降っていった。赤井家では直正の弟の幸家が後見となり統率することになる。
天正7年(1579)5月に氷上城が落城、6月1日に八上城が落城し、光秀は7月に再び丹波に入国して、最後の城、黒井城の攻城にとりかかった。
戦いは8月9日早朝開始、光秀は慎重に攻め込み、陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃した。明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走して落城し、織田信長の丹波平定は完了した。
明智光秀は黒井城南麓に陣屋を設け、家臣の斉藤利三に氷上郡の統治にあたらせた。天正10年に豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が入城した。天正12年小牧・長久手の戦いのさい、赤井直正の弟赤井時直が徳川家康に通じ、黒井城に立て籠もったことを最後に廃城となったとされる。
養父市八鹿町の八木城跡見学を終え、但馬の国から丹波の国に入り、丹波市春日町黒井史跡。登城口の詳細を知ろうと、JR福知山線黒井駅の東にある歴史民俗資料館に向かった。閉鎖されていたので、敷地内の丹波市役所春日分所を訪れ、案内を乞うと、女性職員がパンフレット類を頒けてくれて、大変参考になった。
黒井小学校北東の民家の間に登城口の駐車場があった。最初の長い階段が一番つらい。そこからは尾根道が大半になり約25分で本丸に着いた。登城道も標識も整備されている。
黒井城跡。三段曲輪。大手道である正面の南尾根に設けられていた。
黒井城跡。石踏の段。南尾根の7合目あたりに設けられた
規模の大きな曲輪。休憩所があり、展望所ともなっている。黒井城跡。石踏の段。南側への展望。黒井小学校のグラウウンドの先に、町並みが広がっている。
黒井城跡。石踏の段。段の下には帯曲輪が設けられている。
黒井城跡。東曲輪跡。城の中心部の南端に当たる。手前に虎口があった。
ここから荒々しい野面積みの石垣群が残存するが、斉藤利三、堀尾吉晴の時代に築かれたと推定されている。
黒井城跡。三の丸跡。櫓台と城門が設けられていた。
黒井城跡。本丸跡。石垣。
黒井城跡。本丸跡。虎口の手前に空堀が設けられていた。
黒井城跡。本丸跡。標高356mの
猪ノ口山山頂を削平して設けられた。48m×22mの広さがある。荻野直正は信長包囲網の一翼を担っており、足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。
また、天正6年2月に羽柴秀吉の命により脇坂安治が直正に開城交渉をしたが、直正は応じず、安治の勇気と厚意を謝して、赤井家重代の家宝「貂の皮」を贈った。
黒井城跡。本丸跡。南西への眺望。春日市街地は東西に広がっている。
黒井城跡。本丸跡。南東への眺望。
黒井城跡。本丸跡。北東への眺望。
往路を下り下山。麓の興禅寺へ向かう。
興禅寺。国史跡。丹波市春日町黒井。惣門。背後に黒井城跡。曹洞宗。徳川家光の乳母として有名な春日局の生誕地でもある。水濠の南に駐車場がある。
黒井城の南麓にあり、もとは城主赤井直正の下館であった。天正7年の落城後、明智光秀の重臣斎藤利三がここに居住し、氷上郡一円を支配して、陣屋として居住した。娘のお福(春日局)はここで生まれ3歳まで育ったとされる。
この寺の前身は誓願寺といい、今の位置から150m下った場所にあった。現在の場所に移転したのは、寛永3年(1626)のことで下館跡に、本堂等を移転し、宗派を真言宗から曹洞宗に、寺号を興禅寺と変えた。
惣門は寛永3年に移転のさい、黒井城の門材を使って建てたといわれる。
興禅寺。参道正面に楼門。背後に黒井城跡。右に、休憩所兼NHK大河ドラマ時のミニ資料館がある。
楼門は宮津市の智源寺から移築された門で、創建年代は不明だが、元禄年間改修の記録が残る。
興禅寺。楼門の右に鐘楼がある。鐘楼は、赤井直正の子で伊賀藤堂家に仕えた赤井直義が、寛永年間に先祖供養のために建てて寄進した。現在の鐘楼は大正2年に原形どおり改築された。
水濠を隔てる高石垣の高さは約5mほどで、中央の石橋付近は黒井城と同様の野面積みである。高石垣と水濠は、下館をそのまま再利用したのではないかと言われている。
興禅寺。水濠の長さは約80mで、
「七間堀」と呼ばれている。興禅寺。高石垣の中央以外の部分は切込みハギで、後世の改修によるものとされる。
興禅寺。本堂。
興禅寺。お福腰かけ石。本堂の前にあり、お福が腰をかけて遊んだと伝わる石。お福は、陣屋で産声をあげ物心のつく3歳の冬までこの地で過ごしたのち、亀山城に移った。お福は城下の野山をかけ回り、その可憐さと利発さは領民たちの目をひき誰からも「斉藤屋敷のお福さま」と呼ばれ愛されたという。
後年、徳川三代将軍家光の乳母となり、大奥で権勢を振うようになってからも、幼い頃この地で過ごした年月を懐かしく思い出していたと伝わっている。
興禅寺。お福産湯の井戸。経蔵の裏手にあり、深さ1.7mで、
お福が初湯に使ったと伝わる井戸。興禅寺。庭園。本堂西の客殿前にある。近衛前久がこの地に流遇したとき、自ら指導設計して庭園を造らせた。
興禅寺。庭園。近在の船城郷稲塚村出身の娘が関白近衛家の女中として奉公して、近衛前久の子信基を懐妊し、永禄8年(1565)
稻塚村の実家で出産し、8歳まで育てた。足利義昭と不仲になって出奔した近衛前久はこの縁もあって、黒井城主赤井直正の庇護を受けた。直正は下舘の中に前久の屋敷を構え近衛屋敷とよんだ。直正の内室は前久の息女か妹であったと伝わる。
信基はのちに近衛信尹と改名し、慶長10年(1605)に関白となった。三藐院と号し、寛永の三筆として知られる。
このあと、本日の泊地である道の駅「春日」へ向かった。翌日は柏原、篠山、三田を見学。