伝織田信長所用硯箱。柏原歴史民俗資料館。兵庫県丹波市柏原町。
平成26年6月3日(火)。
硯箱は栢原藩主織田家に伝来し、信長所用と伝わる。黒漆地に高蒔絵で川畔に戯れる八羽の鳥を生き生きと描いており、小型ながらも信長愛用品とよぶにふさわしい優品である。
丹波市春日の道の駅「春日」から、織田家の城下町柏原にある柏原歴史民俗資料館へ向かい9時に着いた。館の横の駐車場は2台ほどの狭さだった。入館料200円は柏原藩陣屋跡と共通。田ステ女記念館が併設されている。芭蕉と同時期の俳人で柏原に生まれたステ女は6歳のとき「雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと」の俳句を詠み、その後も女流俳人として名を知られた。その子孫に田健次郎・田英夫がいる。
織田家末裔の藩は信長の弟・長益の系統が大和芝村藩と大和柳本藩、信長の次男信雄の系統が丹波柏原藩と羽前天童藩の4家が明治維新まで続いた。柏原は「かいばら」と読む。
織田信長の弟・信包は慶長3年(1598)伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封され柏原藩が立藩した。信包の孫で第3代藩主・織田信勝は慶安3年(1650)5月嗣子無く亡くなり、柏原藩は廃藩となり、所領は幕府領となった。これが前期柏原藩である。
元禄8年(1695)4月信長の次男信雄の五男高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、お家騒動により減封されて2万石で柏原に入部し、後期柏原藩が立藩されて、10代信親のときに廃藩置県を迎えた。
柏原藩陣屋復元模型。幕末期。柏原歴史民俗資料館。柏原藩陣屋藩邸は、正徳4年(1714)にはじめて造営されたが、文政元年(1818)に焼失した。その後再建され、明治5年の学制発布により、翌年、豊岡県より払い下げられて崇広小学校の校舎となった。現在に残る建物は、玄関・式台と、これにつづく書院上段の間・同次の間・御使者の間・同次の間と、これをとりまく入側の部分にすぎない。しかし、大名陣屋として原位置に残るものは他にないので、きわめて貴重である。
柏原藩陣屋跡。国史跡。藩邸の長屋門は、陣屋の表御門にあたる。火災に合わず造営当初のものといわれる。桁行13間半、梁間2間で、内部は番所、馬見所、砲庫になっていた。
陣屋の防御施設としては、石塁の上に高塀を廻らすだけで、堀や土塁は築かれていなかったが、陣屋の正面付近には枡形などを備え、7か所に門が設けられていた。
柏原藩陣屋跡。玄関と表御殿。陣屋は背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地しており、当時の城下町では最高所に位置した。陣屋の規模は東西130m、南北160mで、自然地形を巧みに取り込んだ池泉回遊式の庭園が築かれていた。
表御殿は文政3年(1820)に再建された建物で、外観は桃山時代風の書院造りで、玄関より北側の棟は大正期の改築であるが、玄関と大書院は再建当時の姿を残している。正面の玄関唐破風と千鳥破風は檜皮葺きである。
柏原藩陣屋跡。式台と玄関。
柏原藩陣屋跡。書院次の間。
柏原藩陣屋跡。書院上の間。
柏原藩陣屋跡。書院上段の間。
山に囲まれて、織田信長の子孫が暮らした城下町であった。
最近、重伝建地区に指定された篠山市の福住地区へ向かう。