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篠山市 福住重要伝統的建造物群保存地区 雲部車塚古墳

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福住地区。一里塚。重伝建地区。篠山市。平成26年6月3日(火)。
篠山市福住伝統的建造物群保存地区宿場町として発展した町並みと、街道沿いに形成された特徴ある農村に、妻入を主体とした厨子(つし)二階建瓦葺や平家建茅葺の伝統的建造物が、周囲の田園及び特徴ある灌漑施設等の環境と一体となって、宿場町とそれに隣接する農村集落の歴史的風致を良く伝えている。
丹波市の柏原藩陣屋跡の見学を終え、篠山市の東端にある福住地区へ向かった。篠山市中心部の南外れを国道372号を通って東に向かい、八上を過ぎて、三差路を東に進むとすぐに福住地区に着く。脇本陣跡という市営福住本陣団地に車を停めるが、よく分からない。案内標識を捜すため国道に戻り、東へ向かうが案内はない。適当に南へ右折すると、一里塚に出た。貧相な一里塚だった。
地区内道路を西へ戻ると、篠山市役所多紀支所があり、駐車場があった。支所に入り、案内パンフレットを入手。これで、糸口がつかめる。支所の道路向かい側は本陣であったが、今は面影はない。重伝建地区だと、核になる町屋などがあり、見学案内をしている例が多いが、ここにはなく、散策しにくい。要所には案内看板は見かけたが、分かりづらい。B級グルメもショッピングもない。観光客もいない。電柱・電線は美観を害している。
 
福住周辺には、平安時代の昔から古代山陰道が通り、交通は多かったようだ。保存地区は、東西約3,260メートル、南北約460メートルで、篠山城下から京都に向かう西京街道沿いに位置し、東西に流れる籾井川南岸を通る街道に沿って西から福住、川原、安口、西野々の4集落からなる。このうち福住は、江戸時代に宿場町として整備された。一方、川原、安口、西野々は宿場町の外で、周辺に田園が展開し、宿場の機能を補完する農家集落であったと考えられる。
 
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福住地区。福住では、宿場町のほぼ中央に本陣、西端に脇本陣が配され、西京街道に面して町並みが形成される。敷地は街道に沿って短冊形に配され、敷地内には主屋の他に、離れ、納屋、土蔵が建ち、塀で敷地を囲み、門を構えるものもみられる。
家屋は妻入で桟瓦葺の屋根を基本とし、1階軒下部分に格子を備え、半間ほど下がった位置から厨子二階が立ち上がる。切妻面に一文字の庇が設けられ、開口部は虫籠窓となっている例が多い。
 
厨子は本来は仏像を収納する空間のことだが、物置の意味でも使われる。厨子(つし)二階は中二階ともいい、虫籠窓など明取り窓のある屋根裏部屋のことで天井が低く、本格的な2階は「町人が武士を見下ろす」ことから建築されず、外からは物置風に見えることが要求された。近世後期に完成し、明治後期まで建築された様式で、のちに本二階が一般的になる。
 
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川原(かわら)地区。川原、安口、西野々でも、街道に沿って敷地が並ぶが、福住に比べて、間口に比して奥行きが浅い。宿場町では街道に面して主屋が建てられるが、他の部分では、街道と主屋の間に空地や庭を設けるものがある。
 
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安口(はだかす)地区。妻入り瓦葺の家が並ぶ。
 
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安口(はだかす)地区。立派な茅葺屋根の家が残る。修理工事中であった。右横は電気屋。
街道には住吉神社などが点在する。集落間は離れていて、見学にはかなりの徒歩時間を要する。茶店のようなものがないので、楽しさは少ない。
国道を戻り、北西の雲部車塚古墳へ向かった。
 
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雲部車塚古墳。篠山市東本荘。5世紀前半の築造と推定される全長140mの大規模な前方後円墳。丹波地方では最大、五色塚古墳(神戸市垂水区)に次いで兵庫県内第2位の大きさである。
幅約30mの周濠を巡らす楯型の墳形を持ち、竪穴式石室内に長持型石棺が確認され、頸鎧、短甲、衝角付冑等の武具、刀剣、鉾、鉄鏃等の多量の武器を副葬していた。濠の外に周庭帯が確認された。
古代の丹波地域の政治的体制およびヤマト王権との関係を探る上で欠くことのできない古墳で、明治33年(1900)に、宮内庁によって陵墓参考地となった。被葬者は崇神天皇のころ四道将軍の一人として派遣された丹波道主命という説がある。
篠山盆地の東辺に位置し、籾井川の北岸にある。前方部を東向きに築かれている。西側の後円部側に駐車したが、周辺道路は狭いわりに、交通量が多い。
このあと、篠山市八上の八上城跡へ向かった。

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