八上城跡。藤の木坂登山口。篠山市八上。国史跡。
平成26年6月3日(火)。
戦国合戦の舞台となった八上城は、多紀郡を中心に丹波一帯に勢力を誇った波多野氏が本拠とし、その美しい形から「丹波富士」とも呼ばれる高城山に築かれた。京から山陰、播磨へと抜ける交通の要衝であった篠山盆地のほぼ中央の街道を見下ろせる要衝に位置する。
明智光秀によって波多野氏が滅んだ後、慶長7年(1602年)、前田茂勝(前田玄以の子)が八上五万石を領して入城する。慶長13年(1608年)に茂勝が改易され、入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となった。
波多野氏は、15世紀後半に、細川政元から波多野清秀が丹波多紀郡に領地を与えられてから、天正7年(1579)に八上城で滅亡するまで4代に渡って、丹波地域一帯で勢力を誇った一族である。
波多野清秀は応仁の乱(1467~1477)の際に細川勝元に従って石見から京都へ上洛し、応仁の乱の功績で細川政元多紀郡を与えられた。永正年間(1504~20)には幕府管領細川高国の重臣と姻戚関係を結ぶなど、中央政権での地位を固めた。大永7年(1527)細川晴元側につき、細川高国追放に協力し、晴元政権の成立に寄与した。天文7年(1538)三好政長とともに守護代内藤氏を攻略して、波多野氏は勢力を拡大したが、弘治3年(1557)細川氏綱を擁する三好長慶や松永久秀と対立し、八上城を奪われ、波多野秀治は父元秀とともに10年間の流浪の生活を送る。その後、黒井城主の荻野直正などの支援を受けて、永禄9年(1566)に八上城を奪い返し、再び丹波一円に勢力を広げた。
永禄11年(1568)、織田信長が上洛すると、秀治は太刀や馬を献上して、信長に服従する姿勢をみせた。しかし、信長と将軍足利義昭との関係が悪化するにつれて、信長から離れて、将軍側につくようになる。同様に他の丹波の戦国武将内藤氏、赤井・荻野氏らも反信長の姿勢をとり始め、その動きに怒った信長は明智光秀を総大将として丹波攻略に乗り出した。
天正3年(1575)6月より信長の命令を受けて明智光秀による丹波攻めが開始された。第1次の丹波攻めでは光秀が氷上郡の赤井・荻野氏を攻めたが、背後に位置する波多野秀治が突如反旗を翻したため、光秀の軍は敗走を余儀なくされた。
天正6年、第2次丹波攻めでは、明智光秀は丹波亀山城を軍事拠点として西へ攻め入り、八上城の波多野秀治を攻め立てた。10数回にわたる壮絶な戦いの末、天正7年6月、波多野秀治は降伏し、安土城下の寺院で処刑され、戦国武将としての波多野氏は滅びた。
一方の明智光秀は八上城の落城後、間もなく黒井城も落城して丹波攻略を成し遂げ、信長からは「天下の面目をほどこし候」と絶賛され、織田家家臣団トップの地位に上り詰めた。
八上城跡への登城ルートは北西麓の春日神社口から山頂本丸まで登り、北東麓の藤の木坂口へ下山するコースが推奨されている。
重兵衛茶屋バス停から少し南に歩くと春日神社口があるが、この時点では重兵衛茶屋の南から登るという事前知識しかなかった。北東の雲部車塚古墳の見学を終え、八上城北麓の国道を東端から西端へ車で進んだが、登城口の案内標識が見当たらない。東へ戻り、東端まで来たが、やはりないので、北麓の旧道に入った。
電気工事店の店先で私と同年代の男性を見かけたので、重兵衛茶屋はどこかと尋ねてみたら、重兵衛茶屋はかなり西にあり、それよりも200mほど西に登城口があり、先日も登ったのでそこからで問題ないとのことだった。
山頂まで行って、重兵衛茶屋方面へ下り、徒歩で戻ってくればいいともいわれた。その人は明智光秀を大河ドラマに取り上げてくれれば、八上城が話題になるなどと話をした。
私が、城歩きで汗をかいた後で立ち寄る温泉は近くにないですか、と尋ねると、温泉の無料招待券があると言って家の中へ行き、あったと言って温泉の招待券を渡してくれた。謝意を告げて、200m先まで行き、路肩に駐車した。
12時15分藤の木坂道入り口という道路脇にある標石の所から歩き出した。渓谷に沿った急坂を登ると、芥丸跡という見晴らしの良い曲輪跡に出る。本丸には12時50分に着き、13時23分に春日神社口へ下山、旧道を十数分歩いて藤の木坂登城口に帰着した。
芥丸跡。谷筋から稜線尾根へ登った地点にあり、芥川悪衛門の砦跡である。
芥丸跡。東南への眺望。芥丸は東南、曽地方面、福住街道に対し、遠くは、本庄、村雲方面を監視し、野々垣、西荘口よりの攻撃に備えた重要陣地で、眺望は全山第1であるという。
ここからは、緩やかな尾根歩きとなる。
はりつけ松跡。なかなか八上城が落とせないことに腹をたてた織田信長の命令により、明智光秀は母を人質にして八上城に送った。そのかわりに波多野秀治らを城から誘い出し、講和会談中に捕らえて、光秀が止めるのを無視して処刑してしまった。
秀治らの処刑を知った城兵たちが、人質の明智光秀の母や腰元、付き人の侍3人を松につるして磔の刑に処し、その勢いで城外に討って出て、全員が討ち死にしたという。
その時の信長に対する光秀のわだかまりが、本能寺の変の一因であったという説もある。
直径1m以上もあった老松の根株が昭和初期まで残っていたという。
堀切や曲輪跡が点在する尾根道は頂上台地に向け高度を上げていく。途中には血洗池、蔵屋敷、朝路池などがあり、本丸へ近づいていく。
朝路池は本丸の東南、下の谷間にあり、落城のとき、朝路姫がこの池に身を投げて死んだといわれ、この池に「1人行きて、水鏡に自分の姿を写し、それが美女に見える人は、その人年内に死す」との伝説もある。現在は小さな水溜まり程度の池である。
本丸跡。中央に昭和7年建立の波多野秀治の表忠碑が建っている。石垣上の平地は東西45m、南北24m、天守閣については永禄年間、松永久秀が始めて造ったものといわれ、明らかでないが、すでに秀経時代にここに望楼が築かれていて四囲に号令していたと思われる。天守台下の周囲には軍兵を集合するに充分な平地がある。
本丸跡。北への眺望。
天正6年(1578)光秀軍による八上城包囲戦が始まり、波多野氏は八上城に籠城して、徹底的に抗戦した。天然の要害である八上城の攻略は至難の業で、籠城は1年を超える長期戦となった。八上城の周囲は光秀軍により完全に包囲され、補給路は完全に断たれる状況になり、城内には餓死者が多く出るなど、壮絶な籠城戦の様子が様々な史料や伝承として今に伝わる。
長期に渡る籠城に兵たちが疲弊した結果、城内で内部分裂が起こり、和平派により波多野秀治が捕らえられ光秀方に差し出されたのが史実に近いとされる。
本丸跡。石垣が残る。
本丸跡。
岡田丸。本丸の北側下にひろがる曲輪で、波多野秀治の重臣岡田某の屋敷跡。東方及び北側に対する防備陣地で、眺望がよい。1000人が集結できる広さがある。周囲に塀を築いていたと思われる礎石が発見されている。また貯蔵用の大小各種の壺類の破片が出土し、全山の守備用具に使ったものと思われる。
上の茶屋丸跡。本丸跡から西の春日神社方向へ下る。二の丸、三の丸、右衛門丸と下り、上の茶屋丸へ至る。西からの敵に備えた防御陣地が続く。
下の茶屋丸跡。西の篠山城方面への展望が素晴らしい。
さらに下り、麓に着く。
主膳屋敷跡。主膳屋敷は春日神社の上の平坦地で、東西140m南北40m。昔の政庁の跡で、落城後は明智光秀、前田玄以(主膳)ら、最後には松平康重の居館舵あった所である。
この上に波多野氏の居館があったといわれる。
春日神社登城口。旧道から神社の鳥居方面へ登城道が続いている。北西に重兵衛茶屋がある。
旧道を東に歩いて、藤ノ木道登城口へ帰った。途中誰とも会わず、観光的には無視されている。
汗をかいたので、招待券を頂いた天然温泉「まけきらいの湯」へ向かった。
天然温泉「まけきらいの湯」。篠山市河原町。王地山という山の上にあり、北の中学校近くから狭い山道を昇っていくと、施設下に駐車場があり、階段をかなり登って施設の入口に着いた。「まけきらい」の由来を書いたチラシには、江戸時代の将軍上覧相撲で、負けず嫌いの篠山藩主お抱えの力士たちがいつもと違い優勝したが、彼らは城下の稲荷たちの変身した姿だったという伝説が書かれていた。
帰るときに、受付で呼び止められたので、何かと思ったら、入る前の玄関で帽子を落としていたのを誰かが届けてくれていたらしい。親切2連発であった。
以前からの重伝建地区である河原町地区に向かうと、麓へ下ってすぐ近くにあって、ラッキーだった。