篠山。河原町妻入商家群。重伝建地区。篠山市。平成26年6月3日(火)。篠山城跡の南東にある河原町妻入商家群は、約600mの間に、間口5~8m・奥行40mの商家が京街道に沿って千本格子や荒格子、袖壁、うだつなどの特徴を持つ妻入りの商家が立ち並び、近世から近代にかけての町並みをよく保存している。篠山城築城後まもなく町造りがはじめられ、城下町篠山の商業の中心として栄えた。
八上城見学、王地山の温泉入浴後、河原町西端の駐車場に着いた。町並みには観光客がちらほらいて、賑わいがあった。篠山市街地は25年ぶりの再訪である。1989年に丹波古陶館開館20周年の招待が会社にあり、出張で訪れ、篠山城跡なども散策した。10分ほど町並みを歩いて、駐車場に戻り、以前にはなかった篠山城大書院の見学に向かう。短時間なら無料の市営駐車場に駐車し、城へ向かった。
篠山城跡。国史跡。篠山城大書院。上段の間。
慶長14年(1609)徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。以後、松平三家八代、青山家六代の居城として明治を迎えた。
篠山城大書院は天守閣のなかった篠山城の中核をなす建物であった。昭和19年に焼失後、平成12年に再建された。
篠山城大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものである。
上段の間は、最も格式の高い部屋であり、幅3.5間(6.9m)の大床、その左手に付書院、右手に違い棚、帳台構が設けられている。往時の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用している。
築城時の様子を再現したビデオ映像を鑑賞後、本丸を散策。
篠山城本丸跡。天守台。篠山城は内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設ける。外堀の外周は
1辺約400メートルのほぼ正方形で、東・北・南に馬出を設けていた。築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りがあまりにも堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。
篠山城本丸跡。天守台から南東方向への眺望。中央奥が八上城跡。左手前が王地山公園。
駐車料金が気になり、見学を終えたが、城の南部に見所が多い。
篠山・御徒士町武家屋敷群。重伝建地区。慶長
15年に篠山城が完成するとともに城下の町割が行われ、城の西側の外堀の堀端道に平行して南北の通りが設けられ、その両側に徒士を住まわせたのが御徒士町の始まりであった。このときに割り当てられた間口は、平均8間であったことが、現状の境界などから復元的に確かめられている。江戸時代後期の天保元年(1830)に火災があって、御徒士町の大部分が焼失したと伝えられ、復興に際して屋敷は道路より六尺後退させ、火除地をつくって火災に備えたという。明治の廃藩置県によって、江戸詰の家臣を中心として多くの家臣が篠山から転出していったが、御徒士町に住む人々は転出する者が少なく、以後も手入れを怠らなかったことが、かつての武家屋敷の面影をよく今に伝えることになった。
篠山・御徒士町武家屋敷群。安間家史料館。天保元年(
1830)以降に建てられた武家屋敷である。安間家は高12石3人扶持の禄を得る下級武士の一家で、茅葺曲屋形式の母屋と茅葺の門、瓦葺の土蔵が残っており、当時の武家の暮らしを伝えている。入館はせずに、馬出し方向へ向かう。
篠山城跡。東門につながる東馬出し付近の堀と堤。幅は
30m以上もあり、かなり広い。日本で唯一残る土塁馬出しは南西の南馬出しであるが、見落としてしまい、東馬出しで満足してしまった。
篠山城跡。東門外にある馬出跡。篠山城の縄張は、中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、それを三の丸が輪郭式に取り囲む縄張で、外堀の三方に出入口としての馬出ししを設けている。方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設である馬出しを構えた。この馬出しが篠山城の縄張の特徴となっている。
虎口の外側を守る必要から工夫された防御構造の一つが「馬出し」という施設で、虎口の前面、堀に架かる橋の外側に、防御・出撃の拠点となる堀と土塁で区画されたもの。元々は、この内側に騎馬武者がそろって、打って出たことからこの名がついたといわれる。
三田市の花山院へ向かう。
花山院。花山院廟所。三田市尼寺。正式名は東光山菩提寺。真言宗。白雉2年(651)法道仙人の開基と伝わる。西国33カ所霊場を再興した花山法皇隠棲の地として知られる。寛弘5年(1008)41才で亡くなると遺詔に従い当時の桜本坊の北に葬られた。今の花山院御廟所がそれであるという。花山法皇を慕って女官たちが花山院を訪れたが、女人禁制であるため願いが叶わず女官たちは尼となって山麓に住み、琴を弾きその音色で想いを伝えたと伝わり、付近の地名を尼寺村と称した。
廟所の中心には花山法皇の宝篋印塔が立てられている。
三田駅から北上し、有馬富士を西に見て丘陵地帯へ進むと、花山院麓に着いた。16時20分頃だったが、看板には入山は16時30分まで、駐車料金500円と書いてある。急坂の自動車道を登り、有馬富士を見下ろす駐車場へ駐車し、山門をくぐり境内に入った。終い支度をしていた人から、ご朱印ですかと、尋ねられた。違うと答えると、入山料は不要、ご朱印のためでもないので、駐車も無料ということだったので安心した。境内を囲んで廟所・仏殿が点在している。
花山法皇殿。花山院の本堂。法皇が帰依した十一面観音像、花山法皇像、弘法大師像が奉祀されている。
65代天皇花山天皇は安和元年(968)生、寛弘5年(1008)没。在位は永観2年(984)から寛和2年(986)。冷泉天皇の第一皇子。母は摂政藤原伊尹の娘懐子。三条天皇の異母兄。永観2年(984)円融天皇の譲位を受けて即位。即位時には既に伊尹は亡く、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。
寛和2年(986年19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。
蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺に連れ出した。元慶寺へ着き、天皇が落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。
出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤めたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。
出家後の有名な事件としては、長徳2年(996)花山法皇29歳のとき、藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は三の君に通っていると誤解した。隆家は武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に流罪となった(長徳の変)。
『栄花物語』によれば皇女のうち、平平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024)にこの皇女は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025)に法師隆範を捕縛、その隆範は伊周の息子藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白した。
本日の見学を終え、泊地の道の駅「猪名川」へ向かった。