多田銀銅山代官所跡。多田銀銅山悠久の館。兵庫県猪名川町銀山。
「近代化産業遺産」。
平成26年6月4日(水)。悠久の館は北摂の山並みに広がる多田銀銅山の中心として栄えた銀山地区(旧銀山町)の歴史を紹介する施設である。敷地からは石垣が残されている対岸の代官所跡を望むことができる。
多田銀銅山は猪名川町を中心に箕面・池田・宝塚・川西・豊能・能勢にまたがる東西20㎞、南北25㎞の広大な鉱山地帯で、鉱脈にそって、約2000の間歩(坑道)があり、中でも特に品位の高い銀を有する鉱脈が発見された地域が猪名川町銀山であった。
多田銀銅山からは、奈良時代、大仏造立の際に銅が寄進されたといわれ、平安時代には多田源氏の源満仲が銀銅山を目当てに多田庄を開いたともいわれるが、伝承にとどまる。
本格的に鉱山開発と経営が始まったのは、豊臣秀吉の時代で、陣屋を置くなど積極的な開発で大量の銀が採掘され、大坂城の台所を潤すほどの産出量があったといわれ、豊臣秀吉の埋蔵金伝説などが残されている。
江戸時代の万治3年(1660)、大口間歩で銀の大鉱脈に到達し、翌年、幕府の直轄地となり、代官所が置かれて第二の隆盛期を迎えた。銀山の入り口4ヶ所には抜荷などをされないように口固番所が設けられ、通行税も徴収されて厳重な警護体制が敷かれた。地元に残る古絵図には4つの神社と7つの寺や、相撲場・四軒茶屋・芝居小屋などの娯楽施設も描かれ、小都市を形成していたことがうかがい知れる。
「大口間歩」を中心に採掘された銀や銅は、寛文4年(1664)には、産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。その後産出高は次第に減少した。寛永年間からは南蛮吹による精錬が行われ、荒銅から灰吹銀が採取され、抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。
明治30年(1897)から明治41年にかけ、島根県津和野の鉱山家・堀藤十郎が採掘権を取得し、選鉱機械や洋式製錬所など最新設備により近代化を進めた。昭和19年に日本鉱業が鉱区を買収して引き継いだが、昭和48年(1973)に閉山した。
道の駅「猪名川」から南進し、銀山口から西進、銀山川に沿った道路を進むと、開館時間の9時に悠久の館に着いた。入場無料。女性職員と男性ボランティアと話をしたら、「多田銀銅山を知る」という遺跡調査概要の小冊子を渡してくれた。展示や代官所跡を眺めたあと、付近の史跡散策に徒歩で向かった。なお、自動車での史跡見学はご遠慮下さいとのことであった。
堀家製錬所跡。レンガ構造物の遺構。悠久の館のすぐ北の台地にある悠久広場に展示。
明治28年に、島根県の鉱業家で「鉱山王」と呼ばれた堀藤十郎が採掘権を得て銀・銅・鉛の生産をはじめた。明治39年、生産規模を拡大するために、選鉱機械や洋式製錬所など当時の最新設備を設置する等の近代化を図ったが、明治40年秋にはじまった銀・銅の価格暴落によって、機械選鉱場は使用されることなく休業に至った。
町の発掘調査によると、レンガ構造物の前でレンガ敷遺構が出土し、激しい振動を伴う選鉱機械を設置した選鉱場の跡と考えられている。5基の同形レンガ構造物と、それより約2.4m高いレンガ構造物の計6基で構成されている。右側(駐車場側)には煙道の吸込み口が2ヶ所残り、排煙施設として、溶鉱炉と焼鉱炉の2ヶ所の吸込み口から煙道を通り排出される設計になっていた。
堀家製錬所跡。堀家製錬所の歴史。案内板。
堀家製錬所跡。堀家製錬所の施設概要。案内板。
堀家製錬所跡。レンガ構造物の復元予想模式図。案内板。
当時の大通りであった本町通りを北に向かって歩いて行く。
本町通りに残る石柱道標。
代官所の門(広芝邸)。銀山の中心街、本町通りにある。明治の初めに銀山役所を廃止した際、門だけが広芝邸の門として移築された。当初の門は馬に乗ったまま通れるほど高いものであったと伝えられるが、移築の際低くされた。広芝は、銀山に古くからある地名でもあり、秀吉時代広芝陣屋として重要な役割も担っていた。
平炉跡。この遺構は鉱石を精錬するための吹床跡で,金属を取り出した後の鉱滓(カラミ・金糞)が、石垣の下の川原のあちらこちらに散在しているという。金山彦神社の手前の対岸にある。石を積み上げた石垣があり、上部が平地となっている。
金山彦神社。鉱山の神様である。大同2年(807)建立され、天禄2年(971)に源満仲および鉱山師金瀬五郎により社殿が修造されたと伝わる。現在の本殿は銀銅山の最盛期であった江戸時代の寛文年間に建立された。鉱山繁盛期には、秋祭りの折に4年に一度、「銀鉱石」をご神体としている御輿が町内を巡行した。
ハイキングの団体が見学していた。
金山彦神社。参道北。古い井戸が釣瓶とともに残っている。
青木間歩。史跡内では体験入坑できる唯一の間歩。山地の中に生える常緑低木の「アオキ」が間歩の周辺に密生していたところから、「青木間歩」と名付けられたといわれる。
青木間歩。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露頭掘りと、昭和
38年日本鉱業によって開坑された削岩機による機械掘りの採掘を見学できる。全長52メートル、坑口は大きく、大人二人が並んで歩ける。水抜き通風穴跡。青木間歩から少し北の川沿いの山腹に設けられている。水抜き、通風は鉱山では大事な設備だが、分かり易い箇所にあるとは意外であった。
川沿いの道路を歩き、リサイクル工場などのある三叉路から左折して北進。
日本鉱業多田鉱業所跡。昭和19年以来、日本鉱業が瓢箪間歩周辺を中心に機械を使って採掘を行い、最深で地下約270mまで掘り下げた。昭和48年に閉山した。
大露頭。鉱脈が地表に露出している部分を露頭といい、この部分には瓢箪𨫤の鉱脈が露出している。
今から約7000万年前、地下深くにマグマが形成され、マグマの上の部分に金属や色々な物が溶け込んだ熱水が集まった。約6500万年前、この熱水が非常に高い圧力によって岩の割れ目や断層に沿って上昇し、地表近くの浅い場所で冷やされ、石英と共に銀、銅、鉛等の鉱石が出来た。鉱脈を含む地下の地層は長い年月の間に盛り上がって山となり、山の頂が浸食作用によって削られ、鉱脈が地表に現れる。
台所間歩。秀吉時代に開坑された間歩で、銀・銅が豊富に採掘され、大坂城の台所(財政)を賄うほどだったことから「台所間歩」という名がついたという。
瓢箪間歩。秀吉の採掘時期(天正〜慶長期)の代表的な間歩で。銀山地区で最大規模の坑道を有す。大富鉱の銀鉱で、秀吉が採掘していた当時の山師、原丹波、原淡路の親子二代にわたる銀銅の採鉱で盛山となったことで、秀吉から褒美として多大な金子や刀剣を拝領した伝わる。秀吉の馬印の千成瓢箪を間歩の入口に立てることを許されたことから、「瓢箪間歩」と呼ばれるようになったといういい、秀吉が馬上のままこの間歩に入ったともいわれている。
優良鉱脈絵図。瓢箪間歩入口に設置。
悠久の館から瓢箪間歩まで徒歩約30分の道のり。台所間歩南の川沿いの左岸に久徳寺跡の看板がある。
久徳寺跡。山中鹿之助一族の墓。古記録によると、戦国時代の武将山中鹿之助の死後、弟三蔵坊が当時の長谷村(現宝塚市佐曽利)に隠棲し、主君尼子義久と兄鹿之介の菩提を弔うために千本鉱山の近くに建立した。しかし瓢箪間歩全盛の折、湧水が強くなった長谷の千本間歩から砿民が移って来る時、久徳寺も勧請されたと記されている。
また、鹿之介の兄幸正が久徳寺として開山し、鹿之介の母堂が葬られたという記録も残る。
久徳寺は鴻池財閥一族に関わる寺だとのこと。
悠久の館へ帰り、ボランティアの男性に、多田銀銅山は国の史跡でもおかしくないと言うと、敷地の多くが民有地になってしまい、今さら難しいという。確かに、リサイクル工場などが途中に点在し、雰囲気が中途半端になっている。
このあと、多田銀銅山の銅精錬所を営んだ平安家の邸宅「旧平安邸」を中心施設とした川西市の川西郷土館と源満仲関連史跡である多田院の多田神社方面へ移動。