多田神社。多田院として国史跡。川西市多田院多田所町。平成26年6月4日(水)。川西市郷土館の見学を終え、南下して、源満仲関連史跡である多田院へ移動。多田駅前から西へ狭い道を進み、手前で路駐。
多田神社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、多田神社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を多田神社に分骨している。
多田院は源満仲が天禄元年(970)に建立した寺で、天台宗寺院として建立された。鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であった。域内には金堂・塔婆・学問所・法華堂・常行堂・御影堂が営まれて惣社六社権硯を祀り、荘厳を誇っていたが、天正5年(1577年)の津田信澄の手による焼失のため荒廃していたという。
江戸時代に入り、寛文7年(1667年)四代将軍徳川家綱のとき、幕府は新たに本殿・拝殿・釈迦堂などを設け、多田権現の神号を受けるなど、神社としての色彩を濃くし、明治維新後に多田神社と改称した。
社地は当初の位置を継承し、一万六千坪の境内は四方に石垣・堀をめぐらせて、内廓外廓の二重になっており、外廓南大門に楼門があり、内廓には、源満仲・同頼光の廟所、本殿、拝殿、隨神門などがある。南大門の南下には猪名川が流れる高台にある。
南大門は多田院のもとの仁王門であり、両脇に仁王像があった。明治4年神仏分離の折、仁王像は満願寺山門に移転され、安置されている。
多田神社。随神門。重文。切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。本殿と同時期の建立。両脇に築地塀が付き、三楝造と呼ばれる伝統的な手法により建てられた。
豊岩間戸尊、櫛岩間戸尊の二体の随神像が安置されている。源満仲(延喜12年(912)~長徳3年(997))は清和天皇の孫源経基の嫡男で、当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守や左馬助に在任。安和2年(969年)の安和の変では、左大臣・源高明を密告した恩賞により正五位下に昇進した。
藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至り、莫大な富を得た。二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。
また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した武者たちは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。
翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。
多田神社。拝殿。重文。
桁行7間、梁間3間の大規模な入母屋造、檜皮葺。寛文7年(1667年)本殿と同時期の建立。多田庄は満仲の嫡子であった頼光が継承し、頼光の長子頼国を経て、その五男頼綱に継承されたとも、満仲から七男頼範とその子の頼綱に継承されたともされる。
多田庄は頼綱の時代に摂関家に寄進され、摂関家領荘園となる。そして、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には、頼綱が多田荘の郎党を率いて都の防衛にあたっている。その後、多田荘は頼綱の長子明国が継承した。
院政期に至ると庶流の系統が北面武士などとして院に伺候したが、摂関家領である多田荘を継承した明国の系統は行綱(明国の曾孫)の代に至るまで院北面とはなっておらず、代々摂関家の私的武力としての性格を持ち続け、嫡流は「多田蔵人」を称した。
平氏政権下となると、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られる。その後の治承・寿永の乱では、行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。
多田神社。南大門から南への眺望。猪名川が流れる。
鎌倉時代以降の多田荘は、多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は塩川氏や能勢氏などとなったとされる。
正和5年(1316)に行われた多田院堂供養のさい警護にあたった多田院御家人は、渡辺・西村・塩河・黒法師・吉河・山問・能勢等の50数名が名を連ねている。
戦国時代になると、多田院御家人のうち能勢地黄に居城をもつ能勢氏と川西山下に居城をもつ塩川氏の二大勢力が争いった末、塩川氏は没落し、徳川側として関が原で功績をあげた能勢氏が勝ち残って、この地域を基盤とする幕府旗本として明治維新まで続いた。
なお、塩川氏の居城山下城は川西市郷土館の北側にある城山の上にあった。
南進して、伊丹城跡へ向かう。
有岡城跡。伊丹城跡。本丸跡。国史跡。伊丹市伊丹。
有岡城跡は猪名川の西岸,伊丹段丘東縁部の一角に位置する。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていた。天正2年(1574)織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城し、城の名を有岡城と改めて大改造をおこない、侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構えの城とした。
天正6年(1578)秋,村重は織田信長に反旗をひるがえし,有岡城は包囲攻撃を受けた。10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次のいる尼崎城に逃れ,有岡城は落城した。
天正8年信長の家臣池田信輝の嫡子之助が入城するが,天正11年に美濃へ移って,伊丹は秀吉の直轄領となった。その後大名は置かれず,城は放置された。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道の建設工事により主郭部の東半分が失われた。国鉄伊丹駅前の整備事業にともない昭和50年から主郭部の発掘調査が始まり,北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡が発見された。
有岡城跡。城跡らしさを感じるのは石垣ぐらいだった。
JR伊丹駅前にあるのは分かっていたが、安い駐車場を捜すのに苦労した。30分で200円。平日の午後であったが、観光客は少ないながらも途切れなく訪れ、ボランティアが説明していた。黒田官兵衛の牢はどこか尋ねようとしたが、ありそうもなかった。丘の一部であったことは分かる。
駅から徒歩2分ほどの場所に城跡があるのは珍しい。
北西へ進み、宝塚市の清荒神へ。
清荒神清澄寺。寺号標。宝塚市米谷。清荒神清澄寺は真言三宝宗の大本山。寛平
8年(896)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられた。本尊は大日如来。鎮守社として竃の神の荒神などを祀る三宝荒神社がある。鉄斎美術館の存在により、30年ほど前から知ってはいたが、公共交通機関では遠くて、なかなか見学できなかった。国道から坂を登ると、広い無料駐車場があった。参道脇の商店街は平日はほとんど開いていなかった。しかし、参拝客は多い。山門を入ってすぐの、無料休憩所でお茶が飲めるのはありがたい。放映しているビデオも参考になる。
清荒神清澄寺。天堂。天堂では毎日秘法が厳修されているという。布袋様が関西の庶民信仰を象徴している。
清荒神清澄寺。荒神影向の榊。天堂の裏にある護法堂の裏にある。清澄寺開創のさい、荒神尊が降り立ったといわれる。
清荒神清澄寺。池苑。池泉回遊式庭園。江戸時代初期から中期に作庭されたという。
清荒神清澄寺。池苑。山号「蓬莱山」を形象した石組を中心として、滝、亀島、船着石などを組み合わせている。
清荒神清澄寺。史料館。池苑横にあり、入館無料。平成
20年に開館。回廊や水盤などが印象的な建物であった。清荒神清澄寺の歴史などを紹介している。当日は「水と親しむ」というテーマ展が開かれ、荒川豊蔵、永楽即全、楽宗入、楽惺入などの茶碗が展示されていた。鉄斎美術館は境内の一番奥にある。天井の高い展示室で、ゆったりと鑑賞できる。富岡鉄斎は渋い。深い教養がなければ理解できない。印章や香盆なども面白い。企画展のパンフ6種を入手。
清荒神を1時間ほど見学して、有馬温泉へ向かった。