明石城跡。薬研堀。日本100名城。国史跡。兵庫県明石市。
平成26年6月5日(木)。
明石城は徳川家康の曾孫で明石藩10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて、徳川2代将軍秀忠の時代にあたる元和5年(1619)に築城した。
徳川幕府は西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで明石に着目した。明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。
豊前小倉へ移封された小笠原忠真以降は松平庸直、松平光重、大久保忠職、松平忠国、松平信之、本多政利と続き、50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、天和2年(1682)越前松平家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として越前松平氏の居城となった。
本日が旅行最終日となり、名古屋へ帰宅した。道の駅「三木」から通勤ラッシュの中、南東へ進み、県立図書館北の県営駐車場へ8時頃到着。県営駐車場が30分未満まで無料と調べておいたので、その範囲内での見学となる。本丸跡までの見学なら充分な時間であった。本丸跡までの道程は丘陵の谷地地形を通っていることを実感した。また、かなりの量で石垣が残存じていた。
明石城跡案内図。
現在、中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、園内には野球場や陸上競技場、県立弓道場などの運動施設、県立図書館や市立図書館などの文化施設がある。
城地は人丸山とよばれた丘陵舌端に築かれた。人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとされたためという。
明石城は連郭梯郭混合式の平山城である。本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。天守閣は無いが本丸の四隅に三重櫓4基が設けられていた。
築城にあたり、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。元和5年(1619)正月から作事が始まり、元和6年(1620)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。このとき天守は台石まで積まれたが、建てられなかった。
明石城跡。本丸跡。坤櫓。重文。天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓である。天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられる。
桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸(13.60m)、の入母屋造で、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓と異なっている。昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。
明石城跡。本丸跡。坤櫓。重文。北側天守台から眺める。北面は、城内に向かう面で窓は少なく、第一層、第三層にのみ窓がある。西面は播磨平野を展望する重要な面にあたり、巽櫓の南面をひとまわり大きくしたような造りで、天守閣に代わるにふさわしい威容がみられる。
明石城跡。巽櫓。重文。巽櫓は本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。桁行き
5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入母屋造である。昭和57年の大改修で柱や垂木、梁等の木材はすべて統一された規格品による建築物で、当時の最新技術で新築され廃材などは使われていないことが明らかになった。明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームを間近に望める。巽櫓の右に、明石大橋が見えている。
城地の高台からは淡路島や小豆島を眺めることができ、瀬戸内海の水運を眼下に見渡すことができる海上交通の監視哨の役割をももっていた。
明石城跡。人丸塚。本丸跡にあり、人丸山とよばれる由縁となった柿本人麻呂を祀った人丸塚があった。弘仁3年(812)僧空海がここに楊柳寺を建てたといわれる。
仁和3年(887)に楊柳寺の覚証という住僧が夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたという。明石城築城後は、城の守り神として祀られてきた。なお、人丸社は築城時に遷座し、柿本神社のある地を新たに人丸山とよぶようになった。
30分以内で駐車場を出て、神戸市垂水区の五色塚古墳へ向かった。