ザナバザル美術館。ウランバートル。
2014年7月5日(土)。モンゴル国内旅行の手配がうまくいかないまま、宿泊していた「ゴールデン・ゴビ」へ13時頃帰ると、手配役の男性スタッフがいなかったので、徒歩10分圏内にあるザナバザル美術館と国立歴史民族博物館を見学するために外出し、まずザナバザル美術館へ向かった。場所は目抜き通りに面してして容易に発見できた。「地球の歩き方」には、写真撮影1枚2万Tgと書いてあるので心配したが、やはり間違いで単なる写真撮影料だった。入館料と合わせ2万5千Tgを支払って入場。客は私以外いなかった。
ザナバザル美術館といっても、事前知識はなく、ザナバザルとは何者かも知らなかった。しかし、帰国後、宮脇淳子「モンゴルの歴史」や山川出版社「中央ユーラシア史」を読み進むと、彼を取り巻く歴史は現代中国とモンゴル・チベット問題に大きな影響を与えていることが分かってきた。
ホワイト・ターラー菩薩。鍍金青銅製。
21ターラー菩薩の一つ。ザナバザル作。ザナバザルはアジアのミケランジェロとも称され、モンゴル芸術発展に寄与した。特に継ぎ目にない鋳造技術を用いたブロンズ像はザナバザル派彫像とよばれ、仏教の哲学・美・慈悲を表象しているといわれる。
「地球の歩き方」にはザナバザル美術館は、こう紹介されている。「ザナバザルとは1635年にウブルハンガイ県の貴族の家に生まれたモンゴル初の活仏で、ここはその名を冠した美術館。ザザバザルは15歳のときチベットでダライ・ラマ5世に宣言され、モンゴル人初の活仏となり、モンゴルのダ・ヴィンチとよばれ、優れた仏教美術を数多く生み出した。代表作はボクドハーン宮殿博物館にある21ターラー菩薩。13~18世紀頃のチベット仏教の曼荼羅や仏像も展示されている。」
仏塔。鍍金青銅製。ザナバザル作。
別のネットでは、「モンゴルの初代活仏ザナバザルの作品を始め、曼陀羅画や石器時代の岩絵、壁画の模写の他、ウランバートルの西方を流れるオルホン川河畔で発見されたチュルク語最古の碑文の拓本、13~18世紀のチベット仏教の美術品など多くの絵画や仏像が展示されています。ザナバザルは稀代の芸術家だった人物で、その名を冠しています。」と紹介されている。
美術館の中の英文紹介で、ザナバザルは北京で亡くなったと書いてあったので、どういうことかと、気になってはいた。
ザナバザルは貴族の家に生まれたという記述は間違いを起こしやすい。ザナバザルはチンギスハーンの末裔として15世紀後半にモンゴルを再統一したダヤン・ハーンの6世の孫にあたり、ハルハ部トゥシェート・ハン王家の二男として生まれたというのが、正確であろう。
ザナバザル。自画像。綿下地に鉱物顔料。
活仏ザナバザルはチベット仏教のモンゴルにおける最初の宗教的指導者であるとともに、政治的動乱の主体となった人物である。1686年にジュンガル部のガルダンはハルハ部を襲い、ハルハ部が清朝へ逃げ込むと、ハルハのハーンであるトゥシェート・ハンとその弟ザナバザルの身柄を求めて清の領域まで攻め込む事態となった。これに対して清朝は三度にわたる親征をおこなってガルダンを1697年に滅ぼした。これを受け、ハルハ部は清朝に服属することになった。
ザナバザルはジェプツンタンパ1世のモンゴルでの通称である。
ジェプツンタンパ1世(1635~1723)は、ハルハ部の3人のハーンの一人であるトゥシェート・ハンのゴンボドルジの子として誕生した。4歳で戒をうけジニャーナヴァジュラという僧名(梵語)を授けられた。彼に対するモンゴル語の通称のひとつ「ザナバザル」はこの名称のモンゴル訛りである。
1649年にチベットに留学し、パンチェン・ラマ、エンサ・トゥルク等に師事、1650年、ダライ・ラマ5世よりチョナン・ターラナータの転生者としての認定をうけ、1651年ハルハに帰国した。ここに化身ラマの名跡ジェプツンタンパが成立する。
ハルハ3部のうち、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の間が険悪となり、1680年半ばに至り、清朝の康熙帝、チベットのダライ・ラマ、オイラトの盟主でジュンガル部の首長ガルダンらが仲介し、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の講和をはかるフレーンビルチェール会盟が1686年に開催された。
この際、ジェプツンタンパ1世がダライ・ラマの名代としてこの会盟に派遣された使者と同じ高さの座にすわったことがガルダンの激しい怒りを招いた。ガルダンは、エンサ・トゥルクの転生者としてチベットのラサにのぼり、出家してダライ・ラマ5世に師事していたので、ガルダンにとってジェプツンタンパ1世は自分の前世の弟子にすぎず、それがダライ・ラマの名代と対等に振る舞ったことは、師たるダライ・ラマを侮辱したと受け取ったのである。
フレーンビルチェール会盟が破れ、1687年、ジェプツンタンパ1世の兄であるトゥシェート・ハンは、ガルダンに救援を求めようとしたジャサクト・ハンを追跡して殺害、救援にかけつけたガルダンの援軍を破り、指揮官だったガルダンの弟も戦死させた。
翌1688年、ガルダンは弟殺害の下手人であるトゥシェート・ハンと、ダライ・ラマの名代に無礼をはたらいたジェプツンタンパ1世の引き渡し要求を目的としてオイラト軍を率いてハルハに侵攻した。
ジェプツンタンパ1世は兄の妻子をともない、清朝の勢力圏である南モンゴルのスニト部の境界まで逃れ、清朝の保護を求めた。ジェプツンタンパの兄トゥシェート・ハンは軍勢を率いてガルダンに決戦を挑んだが敗北、清朝の領内に逃げ込み、清朝の保護を求めた。
1690年、ガルダンはトゥシェート・ハン=チャグンドルジとジェプツンタンパ1世の引き渡しを清朝の康煕帝に求めたが康煕帝は拒否、ガルダン軍は清朝勢力圏の南モンゴルに侵入、清朝軍と交戦したのち、ハルハに引き上げた。翌1691年、ハルハ諸侯が清朝への服従を誓うドロンノール会盟が開催され、ジェプツンタンパ1世もこれに参加した。
ドロンノール会盟ののち、ジェプツンタンパ1世は10年あまり北京に滞在して活動し、そののちハルハへ帰還した。1722年、康熙帝の死去の知らせを受けて再び北京を訪問した際、病の床につき、翌1723年に89歳で逝去した。
仏塔。鍍金青銅製。ザナバザル作。
ザナバザルはチベットから帰国後チベットからともなってきた多数の職工によってラサのガンデン寺をモデルに寺を建立した。その寺を核に発展した街フレー(庫倫)が現在のウランバートルである。ザナバザル作と伝わる作品はザナバザル支配下の工房にいた職工が製作したと思われる。
ソヨンボ。ザナバザルは
1686年にソヨンボ文字を発明し、モンゴル語を表記するだけでなく、チベット語やサンスクリット語を表記するのにも用いることができた。このソヨンボ文字の中でも、ソヨンボと呼ばれるシンボルはモンゴル国の国家の象徴となっている。1921年から国旗に、1992年から国章や紙幣、印璽などにも使用されている。