ザナバザル美術館。ウランバートル。2014年7月5日(土)。古代資料編。
騎乗者。突厥時代。
7世紀。中部トゥブ県出土。粘土製。人体像。突厥時代。
7世紀。中部トゥブ県出土。木製。人体像。突厥時代。7世紀。中部トゥブ県出土。木製。
仁王像。
Makhranza or Guard.突厥時代。7世紀。中部トゥブ県出土。古テュルク時代には宗教が伝播した。突厥第一可汗国の佗鉢可汗(在位572~581)のときに仏教が伝来し、中部アルハンガイ県のブグトに廟堂遺跡と石碑が残る。
石人。突厥時代。
6~7世紀。中部アルハンガイ県出土。石人の起源には定説がないが、突厥時代とされる。石人にはさまざまなタイプがあり、モンゴル高原からアルタイ、天山、カザフスタンにかけてみられる。
その一つのタイプは右手で容器をもつもので、東か南東を向いて立ち、その前から東方に低い立石が点々と並び、背後に正方形の石囲いがある。石囲いには葬送の跡が見られる。
モンゴル高原西端からアルタイにみられる両手で腹の前で容器をもつタイプは年代的にはウイグル以降の可能性がある。このタイプは石囲いや石列をともなわないため、葬儀とは結びつかず、祖先崇拝儀礼の可能性がある。
寺院壁画。突厥時代。
7~8世紀。複製。貴族の肖像画。寺院壁画。契丹時代。
10~11世紀。複製。契丹は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族で、10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。10世紀に耶律阿保機が登場し、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝となった。
契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。
1004年、南下した遼と北宋は盟約を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。
「中央ユーラシア史」山川出版社、2000年。
鮮卑。北匈奴に続いてモンゴル高原に覇を唱える。
2世紀中頃、壇石槐が首長となる。中国は後漢末で混乱。3世紀初め、兵器・文字など中国文化の流入。鮮卑や匈奴系諸族が中国へ侵入、五胡十六国時代(304~439)が始まる。
高車。3~4世紀モンゴル高原へ南下。テュルク系。西方へ移動。541年滅亡。
柔然。5世紀初めモンゴル高原を支配。北魏へ侵入。
突厥。柔然に従属して鉄鍛冶を業としていた。
6世紀中頃、西魏と通商。552年首長が柔然を攻め、自ら伊利可汗と号す。
三代木杆可汗(在位553~572)のとき領域拡大。青海の吐谷渾、東方の契丹、北方のキルギスを征服。西方ではトゥルファンなどのオアシス諸都市を支配下の納め、ササン朝ペルシャと共同してエフタルを滅ぼした(558年)。
木杆可汗はモンゴル高原中央部のウテゥケン山とよばれる聖地に本拠をおいた。叔父の西面可汗(イステミ)は中国の絹をシルクロード経由でビザンツと交易。
沙鉢略大可汗(在位581~587)以降、隋に臣属する。
583年、突厥西部のイステミの子の達頭可汗が独立する。
630年、突厥東部の可汗が唐に降伏し、滅亡した。東突厥(突厥第一可汗国)の滅亡。
唐の羈縻(きび)支配が始まり、北方諸族の族長が支配される。
682年、王族一門のクトゥルグがイルテリシュ可汗となり突厥第二可汗国を復興。
カプガン可汗(在位691~716)。唐に侵入。則天武后から種子と農機具を与えられる。
ビルゲ可汗(在位716~734)。弟キョル・テギンが軍事権を握る。唐との交易を重視。玄宗から絹馬交易をおこなう許可を得た。
745年、ウイグルに攻略され突厥滅亡。
ウイグル。鉄勒諸部の一部族。廻紇、回紇、回鶻などとも称される。
744年、ウイグルの部族長・骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)がキョル・ビルゲ可汗となり、唐に遣使して懐仁可汗の称号を賜った。
745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼしモンゴル高原の覇者となった。
葛勒可汗(在位747~759)。北方と西方を征服。バイ・バリク。都城をモンゴルボルガン県のセレンゲ川北岸に建設。ソグド人と中国人を居留させ、交易の拠点とした。唐の安史の乱(755~763)に介入、唐に援軍を送り、貢献。絹馬交易の拡大。
牟羽可汗(在位759~779)。唐から4人のマニ教僧を連れ帰り、マニ教が広まっていく。
760年代、モンゴル中央部オルホン川西南岸に新都城を建設。オルドゥ・バリク、ハル・バルガスとよばれる。ソグド人を重用し、その勧めで大規模な唐への侵入を企てると、従兄で宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が牟羽可汗とソグド人官僚を殺害し、代わりに頓莫賀達干が立って4代可汗の武義成功可汗(在位779~789)となった。
7代目から可汗家がヤグラカル氏族からエディズ氏族に変わる。
都城の建設とその周辺での大規模な農耕の展開、上層部の定住、略奪から交易の重視、マニ教の導入など定住文明化が進む。
840年、ウイグル国内で内紛が起こり、北方のキルギスが12代可汗を殺し、ウイグルは滅亡した。ウイグル部族は河西や天山のオアシス地帯に移住し、新たな国家をつくった。
10~12世紀モンゴル高原は契丹(遼)の支配を受けた。