チベット、新疆、青海が中華人民共和国の領土となったのは、チベット仏教の信者であった満州族皇帝のおかげであったという歴史的背景がある。
チベット仏教世界の形成と展開。石濱裕美子。
「中央ユーラシア史」山川出版社、2000年。
仏教と王権は深い関係を有している。チベット仏教が伝播した地域チベット、モンゴル、満州は政治的、文化的に緊密な一体性があった。
菩薩思想と王権が結びつき菩薩王思想が生まれた。菩薩が化身して転輪聖王になる。菩薩は修行により仏の境地を得た者なので、理論上は複数人が同時に出現することが可能である。複数の菩薩王がそれぞれの王国に君臨し、全体として一つのまとまりをもつ複眼的世界像を生み出す。
菩薩王の例として、古代チベットのソンツェンガンポ王、モンゴルのクビライ・カアンとアルタン・ハーン、清朝の康熙帝と乾隆帝がある。
古代チベットのソンツェンガンポ王(581~649)。仏教を導入。7世紀のチベット高原に君臨。吐蕃。古代中央ユーラシア最強の国家。安史の乱に長安を占領。8世紀後半から敦煌を支配下に収める。
チベットの仏教教団は特定の氏族を施主に戴き、教団はその氏族の影響下にあったが、13世紀ころからカルマ・カギュ派に寺院財産を前任者の転生者に寺院財産を相続させる方式が広まり、氏族は教団に対し劣勢となっていく。
クビライ(1215~1294)。チベットの高僧パクパを国師に任命。大都(のちの北京)の崇天門の金輪は転輪聖王の最高位である金輪王を示す。
アルタン・ハーン(1507~1582)。ゲルク派の化身僧ソナムギャツォにダライラマという称号を献じた。実質的には初代であったが、三代目の転生者であったためダライラマ三世と称す。アルタン・ハーンも転輪聖王号をダライラマから授けられた。陰山の南にチベットの大昭寺をモデルにした寺を建立した(のちのフフホタ)。アルタンは前世の記憶を蘇らせて自らがクビライの転生者であると自覚したと年代記に記される。
転生思想とモンゴル社会。アルタン・ハーンの時代にもチンギス・ハンの直系を名乗るチャハル王家が存在していたが、当時のモンゴルにおいて、チンギス・ハンやクビライの権威に比して微々たるものであった。輪廻思想では祖先と子孫が同時に在世することを可能にする。アルタン・ハーンをクビライの転生者と認める者にとっては、アルタン・ハーンの権威はチャハル王家の権威をしのいだ。従来チンギス・ハンの血筋の遠近で権威の高下が生じていた価値観を、過去世の貴さの程度で権威の高下が生じる価値観に変えていった。
チベットの高僧がモンゴルの王家に転生するというパターンが繰り返され、チベットとモンゴルの社会は急速に一体化を進めた。
モンゴルにおいても、世俗が超俗に従属し、世俗勢力は宗教的権威を支持するか一体化することによってしか権力を握れない社会に変質していった。
17世紀中頃以降、ダライラマ5世の権威はチベット、モンゴル、満州などのチベット仏教世界を制した。ダライラマ5世はモンゴルの王侯たちにハーン号を授与した。
仏典において文殊は東方を司る仏で、中国は文殊の加護を受ける地とされたため、清朝皇帝は文殊菩薩皇帝とされた。1682年にダライラマ5世が亡くなると、清朝やジュンガル部などの間で転生者の認否で対立が起きた。
1717年ジュンガルがラサを占領すると、1720年にダライラマ7世を奉じた清朝と青海ホショト(チベット王家の傍系)がチベットへ侵攻して、チベットを平定した。グシ・ハーンの家系が占めていたチベット王の座をめぐり、青海ホショトが反乱したとみなされ、侵攻した清朝に制圧されて青海地区は併合された。
チベットをめぐるモンゴル軍と清朝軍の動きは。ダライラマ位に影響の与えるポジションを満州人とモンゴル人が奪い合ったものといえる。
乾隆帝はクビライと吐蕃最盛期の王ティソンデツェンを自らの前世者として認識していた。乾隆帝は、ジュンガル、新疆を制圧し、グルカ戦役を戦った。中華人民共和国は清朝の版図をほぼ引き継いでいるため、康熙帝、乾隆帝の軍事活動が現代に与えた影響は大きい。乾隆帝の征服活動とチベット仏教思想は深い関係を有している。
乾隆帝はチベット仏教世界では文殊菩薩が化身した転輪聖王として知られていた。仏教をもって四方を征服し、日輪のごとく臣下を育む帝王として、四方の国を自分の支配下にいれるという世界観をもっていた。
乾隆帝は1780年にパンチェンラマ(阿弥陀仏の化身)を招請したときは、自らと同格に遇した。パンチェンラマの死を契機にして、ネパールのグルカ兵と戦ったグルカ戦役で多大な出費をして以来、仏教熱が冷めていった。化身僧の腐敗の根源を断つため、籤による化身僧選定制度である金瓶制度を導入した。
WIKIから。
クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパは元朝の帝師として篤く遇され、この時代にチベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。
1368年の元朝崩壊後はサキャ派に替わってカギュ派系のパクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。パクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。サキャ派やパクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、対してカルマ・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。
ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。この時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んだ。特にモンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。
ゲルク派はツォンカパが1400年頃に立宗した。ツォンカパは、過度のタントラ主義を否定して、密教を中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系と位置づけた。また、従来の在家密教行者や氏族中心の宗派に対して、厳格な戒律に基づく出家修行を重視し、僧院を基盤とする教団を組織した。
1642年までにオイラト・モンゴルのグシ・ハンがチベットの大部分を征服してグシ・ハン王朝を樹立し、ダライ・ラマ5世を擁立して宗派を越えたチベットの政治・宗教の最高権威に据えた。以来、ダライ・ラマを法王として戴くチベット中央政府が確立された。これにともない、ダライ・ラマが元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず、隣接するハルハ、オイラトなどの諸国からもチベット仏教の正統として遇され、大いに隆盛となる。
モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝の後継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承なども清朝の干渉を受けるようになった。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かった。