モンゴル国立博物館。ウランバートル。2014年7月5日(土)。
第2室。モンゴルの古代国家。
匈奴。BC3世紀~AD1世紀。
突厥。6~8世紀。
ウイグル。8~9世紀。
遼(契丹)10~12世紀。
棺の装飾。黄金製。匈奴時代。BC3~AD1世紀。北東部ヘンティー県出土。
太陽と月。黄金製、匈奴時代。BC3~AD1世紀。北東部ヘンティー県出土。
石碑。突厥およびウイグル時代。約60基の石碑が発見され、ほとんどは解読されている。
石碑。突厥およびウイグル時代。
ブガット石碑。6世紀。突厥時代。中部アルハンガイ県。
ソグド文字とサンスクリット文字で刻字されている。上部にはオオカミが子供に乳を吸わせる光景が描かれ、突厥の祖先はオオカミだったという始祖神話が暗示されている。
キョルテギン石碑。碑文の一部。732年。突厥時代。複製。
キョルテギン石碑。732年8月1日。キョルテギンは突厥第二可汗国の初代可汗イルテリシュの息子で、後継者争いで兄がビルゲ可汗となるのを助け、自身は軍事権を握った。
キョルテギンは731年2月27日に47歳で亡くなり、11月1日に埋葬された。約1年後に廟所と亀趺が墓地に建立された。
亀趺の上部は龍で装飾されている。古代トルコ文字(ルーン文字)が前面と両側面に刻まれている。68行約1万文字は親族のロリグテギンが20日をかけて刻んだ。背面には唐の明華王が弔辞を述べている。
キョルテギン石碑。複製。現地。中部ウブルハンガイ県。カラコルム(ハラホリン)近郊。
7月8日に、突厥帝国の聖地であるオルホン川畔の現地を見学。
キョルテギン石碑。実物。中部ウブルハンガイ県。カラコルム(ハラホリン)近郊、ホショーツァイダム博物館。
キョルテギン石碑の正面は漢文で、唐の玄宗皇帝がキョルテギンの死に際して寄せた弔辞が刻まれている(ママ)。キョルテギンの勇気を讃えたものだという、しかし、その石碑の側面と裏面に突厥は自分たちの文字でひそかに子孫への言葉を刻み込んだ。「この地より良い場所は他にない。漢民族の甘い言葉や柔らかい絹に惑わされてはいけない。この地を離れずに生きよ。」と、「司馬遼太郎の風景(NHK街道を行くプロジェクト)」には、こう記載されている。
なお、兄のビルゲ可汗碑文にも、突厥の民衆にたいして、唐人の甘言にのせられて破滅に陥らないようにというビルゲ可汗の警告が、突厥文字できざまれている。
三十姓タタル。モンゴル部族。キョルテギン石碑の碑文には「バイカル湖の東岸方面のクリカンとシラムレン河辺のキタニ(契丹)の間にオトズ・タタル(三十姓タタル)がいた」という記述がある。
三十姓タタルはモンゴル部を含んだ多数の部族で、当時はケルレン川中流下流域、アルグン川、オノン川、シルカ川方面にいたことになる。
「唐書」などによると、モンゴル部族は室韋とよばれ、大興安嶺山脈の北アルグン河畔に住み、西は突厥、東は契丹。北はバイカル湖に臨み、突厥に付属していたとされる。
石碑。契丹時代。南西部ドルノゴビ県。
契丹文字で刻字されている。